従兄の戦死
(『奪われた若き命 戦犯刑死した学徒兵、木村久夫の一生』の著者によるコラムです)
わたしは昭和15年2月25日、福島県の奥会津に生まれた。太平洋戦争の開戦が16年12月8日であるからその前年ということになる。生まれた時期と場所は、わたしの戦争体験と深くむすびついている。
時期的には幼かったということ、そして場所ということでは田舎だったため激しい空襲などがなかったということで、戦争の恐ろしさを感じる記憶はないのである。そんな中で深く心に残っていることは、母方の2人の従兄長男猪股吉蔵、次男善二の戦死である。特に長男吉蔵は二冊の日記帳を残したことでその戦死を強く印象づけている。
吉蔵については子供のことから多くのことを聞かされている。南会津郡田島町(現在南会津町)に対象8年に生まれた吉蔵は、子供のころから学業、運動両面にすぐれ当時さかんだった相撲が大好きだった。また剣道にも励み小学校高学年のときには県下少年剣道大会に学校代表として出場して優勝するほどだった。
吉蔵の生家は半農半商で、農業と共に製粉業も営み、季節に合わせて養蚕のまゆ、ぜんまい、勝栗などもあつかっていた。このような家であったことから、地元では「奈良屋」の屋号で広く知られていて、祝いごとのときなどには親戚中が集まってにぎやかだった。わたしは母に連れられて行ったのであるが、広い家のあちこちから、「キチゾーは、キチゾーは」と、吉蔵がどんなに優れていたかそして、人にはどんなにやさしかったかが語られた。
長男だった吉蔵は家業を継ぐのであるが、多角的な農営をめざし、それを学ぶために宮沢賢治の愛弟子である松田甚二郎が開いた最上共同村塾に入塾する。この塾の実践の書、『工に叫ぶ』には吉蔵の事が「福島県からの青年は公民学校を優等で卒業した半農半商の長男。実践的な塾をとあこがれて入塾したのであって、社会のことも農業のこともよくわかった19歳の実に真面目な青年であった。終始一貫懸命に修業してやまず敬服に耐えなかった。」
塾を修了すると徴兵検査を迎えて結果は甲種合格、昭和15年1月横須賀海兵団に入団する。太平洋戦争で日本軍の敗戦が濃厚になった19年4月最新鋭空母「大凰」に司令部付で乗艦舞鶴港を出港しサイパン島に向かう。しかし6月19にちマリアナ沖海戦で海底に散ったアメリカ軍の一発の魚雷で艦が沈没したためだった。自分が生まれる直前に海軍に入り戦死した従兄を忘れることはできない。
■著者紹介
『奪われた若き命 戦犯刑死した学徒兵、木村久夫の一生』(山口紀美子・著)
1941年、日本は大東亜戦争(太平洋戦争)に突入する。日本では多くの国民が徴兵され、戦場に向かうことになった。そんな時代に行われた学徒出陣で徴兵された若者たちの中に、木村久夫という一人の青年がいた。
終戦後、戦地であったカーニコバル島の島民殺害事件に関わった人物として、木村久夫さんはイギリスの戦犯裁判にかけられ、死刑を言い渡された。その時木村さんが書いた遺書は、学徒兵の遺書をまとめた『きけわだつみのこえ』に収録されたことでよく知られている。
その『きけわだつみのこえ』を読み、木村久夫という個人に心惹かれた著者は、木村久夫さんの妹、孝子さんと何年も文通を重ね、木村さんのことをさらに深く知っていった。その後、孝子さん夫妻と実際に何度も会い取材を重ねていく中で、著者は木村久夫さんが歩んできた人生の足跡を辿っていくことになる。