見城氏のインタビューから『表現の本質』について考える本コラム。
前回は表現欲求、作品のオリジナリティの重要性について解説しました。
今回は引き続き、第2弾をお届けします。
近年、スマートフォンやSNSが急速に普及するなかで、個人の表現の場も広がってきました。SNSはアカウントを通じて知人と繋がり、自分が発信した情報を相手のアカウントのフィードに表示させることが出来ます。
ブログはSNSより以前から利用されていましたが、やはりWeb上で顔の見えない相手と繋がり、自分が書いた文章を読んでもらう事ができます。
いつ、どこでも、誰でも、簡単に…。原稿を書いて紙に印刷して人に手渡しするという、これまでには無かった新しい表現方法です。
それがSNSやブログによる表現のメリットであると言えますが、見城氏は「表現のきれっぱしでしかない」と語っています。
記事をアップしてある程度の自己承認欲求は満たされるものの、「それでは本当の自己救済を得ることは不可能」と言うのです。短い記事の散乱は表現のきれっぱしでしかなく、それらを体系立てて作品という形に結実させる必要があるからです。
たとえ作り上げた本がたくさん売れなくても、知人に配ったり子どもに残すこともできますから、自分の思いが相手に伝わり、十分に表現欲求が満たされるはずです。
このように、表現欲求を満たすために本を書くという行為は、何かが欠落している人でなければできません。見城氏によると、「欠落しているから、満たされないからこそ、表現したい、書きたいという強い衝動にかられる」のだそうです。
しかし、書くという行為は表現欲求を満たすのと同時に、生みの苦しみや心をさらけ出す事などによる、自分自身に『傷』を受ける行為でもあります。
見城氏はこれを「血を流す」という強い言葉で表現をしています。
傷つき血を流す覚悟がなければ、良い作品を作り上げることは出来ません。
「一冊の本を作り上げるという究極の人生表現」を成し遂げるには、血を流すような苦しみを乗り越えてこそできるものであり、そんな苦労を経て出来上がった本が、「誰かに読まれることによって、ようやく自己救済を得ることができるのです。」
これが見城氏にとっての表現の本質であり、誰もが挑戦して良いことであると語っています。
前回も表現は『究極の自己救済』であるとお伝えしましたが、やはり簡単に出来ることではありません。
しかしその一方で、人は表現せずに前へ進むことはできず、血を流して表現の本質にたどり着いた人こそが、救いを得ることができるのではないでしょうか。
今も昔も、多くの作家が生まれ、世の中の人々に知られ、そして亡くなっていきます。
その流れの中にいる皆さんは、はたしてどのように表現をして欲求を満たし、救いを得るのでしょう。
「本を書くこと」と思い浮かんだ方は、ぜひ原稿を書いてみてください。
幻冬舎ルネッサンス新社では、本を作る楽しみを自費出版という形でお手伝いしております。
原稿応募、出版の相談、お問い合わせ、資料請求まで、お気軽にご連絡ください。
お問い合わせいただきましたら、担当の編集者がご対応いたします。
原稿内容やご要望に沿ったご提案やお見積もりをご提示いたします。
幻冬舎グループ特約店(150法人3,500書店)を中心とした全国書店への流通展開を行います。