(『奪われた若き命 戦犯刑死した学徒兵、木村久夫の一生』の著者によるコラムです)
前回のコラムはこちら「本からうまれた絆」
4月のある日、原稿の校正でお世話になった藤井志織さんと電話で話す機会があった。そのとき、『奪われた若き命』の感想が出版社に寄せられていることを知らせて下さった。
後日「(株)幻冬舎様 山口紀美子様」と記されたお便りと文集を、幻冬舎から送っていただいた。文集のタイトルは「戦後70周年 子や孫に伝える記」である。この文集の奥付には「発行責任者 安養山了源寺 前住職松浦暁了」と記されていた。「松浦」の2文字はすぐ、自著執筆において貴重な資料となった『印度洋殉難録』と結びついた。どきどきしながらそれを開きページをめくっていくと、教誨師面談録 松浦覚了」と松浦さんの名前がすぐに目に入った。文集の奥付にあった松浦暁了さんは松浦覚了さんの御子息であることを確認した。松浦さんの面談録は、第一タマグリ島事件と、カーニコバル島事件で処刑された人の記録の中にあった。どちらも早期の裁判で死刑判決が多く出された。
松浦覚了さんは依頼された教誨師の役目を引き受け、死刑囚と話すことになった。その中の一人が木村久夫さんである。その松浦さんに寄せた手記が、中外日報(昭和48年8月25日)に掲載されている。
手記の冒頭には、「あの『母の笑顔をいだきてゆかむ』の遺書を、受け取りに行ったのは私でした。」の記述がある。さらにそれに続いて示された朝の様子が書かれている。
「木村君は、大阪府下吹田の出身で、忘れもしない昭和二十一年五月二十三日午前八時に処刑されました。その日の朝七時に木村君の部屋に出かけました。どなたに限らず最後の面会人であり、最後のことづけを受け取るのが私の任務でした。部屋に入ると、コンクリートの土間の粗末な寝台には、白紙にのせられた朝食のビスケットのいくつかと、水の入った水筒がありました。」手記はこのあと、木村さんが言われたことと三首の歌を示してむすばれている。歌は一首のみの紹介になる。
「『学者で身を立ててゆこうと思っていたのに、書もなく死ぬのは残念でなりません。』といい、母の笑顔の辞世の一首の前に書いた『朝かゆをすすりつつ思ふ故郷の父よゆるせよ母よなげくな』を私に示してくれました。」
■著者紹介
『奪われた若き命 戦犯刑死した学徒兵、木村久夫の一生』(山口紀美子・著)
1941年、日本は大東亜戦争(太平洋戦争)に突入する。日本では多くの国民が徴兵され、戦場に向かうことになった。そんな時代に行われた学徒出陣で徴兵された若者たちの中に、木村久夫という一人の青年がいた。
終戦後、戦地であったカーニコバル島の島民殺害事件に関わった人物として、木村久夫さんはイギリスの戦犯裁判にかけられ、死刑を言い渡された。その時木村さんが書いた遺書は、学徒兵の遺書をまとめた『きけわだつみのこえ』に収録されたことでよく知られている。
その『きけわだつみのこえ』を読み、木村久夫という個人に心惹かれた著者は、木村久夫さんの妹、孝子さんと何年も文通を重ね、木村さんのことをさらに深く知っていった。その後、孝子さん夫妻と実際に何度も会い取材を重ねていく中で、著者は木村久夫さんが歩んできた人生の足跡を辿っていくことになる。
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