(『奪われた若き命 戦犯刑死した学徒兵、木村久夫の一生』の著者によるコラムです)
前回のコラムはこちら「松浦覚了さんの手記から-「私が最後の面会人」-(作家:山口紀美子)」
わたしはずっと日記を書いているが、高校時代祖母と母のことで悩み、そのことを紙面にぶつけるように書いたことは、忘れることができない。テスト勉強を気にしながらも苦しい内面を書いたことはわたし自身の精神史でもあり、今でもふと思い出すことがある。ここではほんの一部を紹介し、そのあとに子どもの頃の祖母と母について書きたいと思う。寄宿舎生活だったので以下の文は土曜日に帰省したときの日記からの紹介である。
2月23日(土)家に帰ったときの気分はなんとなくいいものだ。しかし今度帰った時ほどばあちゃんが色々なことを言ったことはなかった。「じゃまにされてる」などとも言った。母ちゃんは一体どんな態度をとっているのだろうか。このようなことを考えるのは、今の自分にはあまりにも重荷だ。ああ自分で言いたいことを言ってしましたい。ー中略ーお互いに誤解している点が沢山ある。ばあちゃんにだってそんなに長くは生きられないだろうに、死ぬまでおもしろくない毎日を送ると思うとたまらない。母ちゃんだっておもしろいはずがないんだ。どうにかならないものか。
このことに関しては、「どちらかが死ぬまでどうにもならないのだ」とまで書いたことがある。2人の人間としての違いが折り合いの悪さを生み出していたのであるが、これからその違いを書きたいとおもう。祖母は本も新聞も読み、芝居見物も好きだった。その上短歌も好み辞世の歌も残している。手先が器用だったことの思い出もある。それは終戦後物が不足していたとき、破けた靴下を利用して足カバーを作ったことである。このような祖母は、当時子供も当てにされた夜のたばこのしのときなどに、財産の多くが人手に渡って、父あ生まれたとき家は貧乏だったことや、忠臣蔵の物語などを面白く話してくれた。
特に趣味もなく、田と畑の仕事が生活のすべてだった母は、祖母に心を閉ざしていた。わたしはそのことを感じとっていて、「母ちゃんがもっと利口にふるまってくれたら」と思ったこともある。自分の心を抑えて祖母と話すことを願っていたのである。しかしそうはならなかった。高校時代を思うとき、祖母・母・日記がむすびついて脳裏に浮かんでくる。
■著者紹介
『奪われた若き命 戦犯刑死した学徒兵、木村久夫の一生』(山口紀美子・著)
1941年、日本は大東亜戦争(太平洋戦争)に突入する。日本では多くの国民が徴兵され、戦場に向かうことになった。そんな時代に行われた学徒出陣で徴兵された若者たちの中に、木村久夫という一人の青年がいた。
終戦後、戦地であったカーニコバル島の島民殺害事件に関わった人物として、木村久夫さんはイギリスの戦犯裁判にかけられ、死刑を言い渡された。その時木村さんが書いた遺書は、学徒兵の遺書をまとめた『きけわだつみのこえ』に収録されたことでよく知られている。
その『きけわだつみのこえ』を読み、木村久夫という個人に心惹かれた著者は、木村久夫さんの妹、孝子さんと何年も文通を重ね、木村さんのことをさらに深く知っていった。その後、孝子さん夫妻と実際に何度も会い取材を重ねていく中で、著者は木村久夫さんが歩んできた人生の足跡を辿っていくことになる。
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