コラム

「社会保障クライシス」余話**

 

本コラムでは、「社会保障クライシス」(安達和夫・著)の余話をお届けします。どうぞご覧ください。

社会保障クライシス(安達和夫・著)
美馬祐一郎は鉄鋼会社社長を引退し、趣味の蕎麦づくりに勤しむ落ち着いた日々を送っていた。そこへ訪れた一本の電話。元部下である現総理の悲痛な懇願。「人を活かすことで企業再生を実現してきた美馬さんに、ぜひとも社会保障改革本部の本部長に就任し、日本再生に貢献して頂きたい」――政界初心者の美馬のもとに群がる悪意と謀略。はたして美馬は社会保障改革を実現し、孫世代のための豊かな日本を築くことができるのか? 読み出したら止まらない、圧巻の政治小説!(書籍の詳細はこちら)

 

 

この物語は、私が2016年2月23日に出版した著書「社会保障クライシス」の余話である。
ご一読いただけましたら幸いです。

「狩野さん、ちょっと待ってください。いきなり辞めると言われても、あまりに唐突で私は納得できません。狩野さんは、この毎朝新聞が公正な視点で政治を論ずる上で、なくてはならない存在なのですよ。いや、この毎朝新聞社だけでなくマスコミ界全体にとっても、生涯一記者を貫かれておられる狩野主幹は掛け替えのない方です。それを、今回の記事の一件だけで辞めると言われては、私たち政治記者は一体どんな記事を書いたらいいのでしょう。まるで、私たちに死ねと言われているようなものではないですか」

編集局長室を足早に後にする狩野利博に追いすがりながら、その背中に向かって高木吉雄は必死に言い募った。雲の上の存在ともいえる狩野に向かって、これほど感情を露わにした言葉を投げかけるとはこれまで考えもしなかった。振り向きざまに「うるさい!」と一喝されるのも覚悟の上だった。むしろ、高木は心の内ではそれを望んでいたのかも知れない。

無言のまま足早にエレベータホールまで来ると、狩野はようやく高木を振り向いた。しかし、その時の狩野の表情は、これまで高木が見たことがないほど柔和だった。狩野は、右手を軽く上げて口元で親指を小さく回し、酒を飲むようなしぐさをすると「ちょっと付き合うか」と言って高木を誘った。

 

「俺は、根本的に政治家と言う人種を信じていない。それは今でも同じだ」
東銀座の行きつけのバーのカウンターに二人並んで座り、狩野はグラス片手に静かに語りだした。

「政治家が下した間違った判断で潰れかかった国はいくらでもある。そのせいで国民に塗炭の苦しみを与えたことも決して珍しくない。この日本だって、そうはならないと誰も保証することはできない。しかし、仮にそうした事態に陥ったからと言って、革命やクーデターでも起こらない限り、その原因を作った為政者がそれにふさわしい責任を取らされることはないだろう。

彼ら権力者が暗黙のうちに許された最大の特権は『失政の責任を取らされることはない』ということだ。一般の民間人とは根本的に違う世界に彼らはいるのだ。失政は政治家人生を失うと言う政治家や評論家もいるが、現実に失政の責任を取らされて政治生命を失った権力者は日本に何人いるかい?政党が支持を失い落選の憂き目を見るのは、党にぶら下がっていた下っ端の連中ばかりだ。党の執行部や大臣クラスで落選する政治家はごく少数に過ぎない。その証拠に、野党に転落した民政党ですら、党の中枢にいた政治家の多くは今でも議員として生き残っているだろ」

淡々と語る狩野の声は、今まで高木が接してきた傲慢なほど自信に満ちた狩野とは思えないほど、一言一言をかみしめるような深く静かな声音だった。

「東京裁判で、文官唯一のA級戦犯とされ絞首刑になった広田弘毅だって、スケープゴートのようなものだ。あの敗戦当時に実際に力を持っていたほかの連中は、せいぜい公職追放を食らった程度で、ほとぼりが冷めたら再び権力側に返り咲いているじゃないか。

だから、彼らは何が何でも権力に執着するのだ。選挙で負ければ地獄に真っ逆さまに落ちるのも同然だから、国民の関心を引くことばかりを力説する。選挙にさえ勝てば、公約で述べたこととの辻褄合わせさえすればそれで国民は納得すると考えている。仮に納得しなくても、とんでもないヘマさえしなければ任期中は安泰に暮らせる。ことほど左様に、選挙でどんな広言を吐いても、裏で何をしでかしても、一端権力さえ手に入れさえすれば、余程のことがない限り責任を問われない奴らを信じることができるかい?」

「だから狩野さんが行ってこられたように、公正な立場で正しく事実を国民に伝えるマスコミの役割が重要ではないのですか?」

狩野は口の端で小さく笑うと、「俺もそう思って周到な取材を続けてきた。大本営発表のような記者クラブからも距離を置いて独自の取材を続けてきた。
以前、お前さんが笹井議員から取ったスクープ記事を怒鳴りつけたことがあるだろう。あれも、笹井という政治家を信じていなかったからだ」

「私もいきなり怒鳴りつけられたときは気が動転して、スクープを私のような若輩に盗られて嫉妬されたのではないかとさえ思いました。しかし、ふたを開けると、狩野さんは笹井先生の意図を見事にお見通しだったではないですか。私は、あの一件で政治家の恐ろしさを思い知らされたのですよ」

「まあ、そうとも言えるかな。しかし、お前さんが笹井議員の発言を鵜呑みにした記事を出したことで、この国は良い方向に動き出すきっかけを作ったと思っているよ。結果的にはマスコミ人にとっての本懐を遂げたことになる」

狩野はバーテンダーから新たなロックを受け取ると、カチンと高木のグラスに軽くぶつけた。
「狩野さんにとって、笹井議員は信じるに足る数少ない政治家ということですか?」と高木が聞くと、狩野は小さく笑って「俺はそんな単純な男ではないよ。笹井は永田町に住む大狸たちのドンのような存在だと今でも思っている。しかし、彼を突き動かした背後にある危機的状況だけは俺にもよく理解できた。だから、彼の言葉に乗ったのさ」
狩野は姿勢を変え、カウンターに肩肘を付いて高木に向き直り語りだした。

 

「この国の経済は、綾野前総理が行った経済政策のツケが大きくのしかかっている。今年2018年の公債残高はすでに800兆円に近付いている。金利なしの単純計算しても、税収でこれを返済するには20年もかかる。国の借金の累計は1060兆円と天文学的な数字になっている。それでも、綾野政権では気が狂ったようにカネを刷り続け、マイナス金利という前代未聞の事態まで演出した。円が安くなり輸出産業が活性化し株価さえ上がれば、経済全体が潤うといった幻想に取りつかれていたのだろうな。政権発足直後に株価が跳ね上がったことが、政権を盤石なものにした最大の理由だったため、今更政策の転換ができなかったのかも知れない」

「狩野さんは、綾野政権の経済政策の危険性をいち早く記事にして大きな話題になりましたよね。あの時は、米国のファンド王の単独インタビューにも成功し『綾野政権は常軌を逸したようにお金を刷り続け、日本を破綻に追い込んでいる』といった見解まで取り付けられました。さらに、『綾野首相が辞任するか、彼自身が変わるかしかない』とまで彼に言わせていましたね」と、高木は改めて尊敬のまなざしで狩野を見つめながら言った。

「あの頃の俺は、経済も多少は勉強したからな。尤も半分以上が耳学問だったが」と冗談半分に言ってから話を続けた。

「綾野政権の経済政策では『トリクルダウン』という言葉がよく使われたよな。結婚式の披露宴でよくやる、ワイングラスを山のように積み上げてテッペンのグラスにワインを注ぐとグラス全体がワインで満たされていくというやつだ。経済理論にも『トリクルダウン効果』というものがあって、基幹産業が活性化することで国内のあらゆる産業が潤い、給料も税収も上がるという考え方だ。綾野は、『大胆な金融政策』を行うことで基幹産業である輸出産業に大量のワインを注ぎ込んだのだな。さらに、『機動的な財政出動』と称して公共事業を増やして、産業のテコ入れまで図ろうともした。トリクルダウンさえ成功すれば、国の借金などは問題ではなくなると踏んだのだろう。また、経済をインフレ基調に誘導できれば、カネの価値が相対的に下がるため、公債の償還も容易になるとも考えたのだろう。しかし、ここに大きな間違いがあった。それは何だと思う?」

「個人消費や設備投資が思うように伸びなかったから・・・でしょうか」と、高木は自信無げに答えた。いつもの狩野だったら『どこに目をつけているんだ!』と怒鳴りつけられるところだが、今夜の狩野はただ口元に苦笑を浮かべるだけだった。

「問題はもっと根本的なところさ。基幹産業に注ぎ込んだワインを受けるはずのグラスの多くが海外の下請け企業だったからだ」

それを聞いて、高木はハッとして「そうか。長い不況で輸出産業の生産拠点の多くは海外に出ていましたね。当然、現地生産のための海外企業とのサプライチェーンは出来上がっていた。バブル崩壊までは企業城下町を構成していた下請け企業も、この間に生き残りをかけて独自のチャネルを構築していた。こうなれば、いかに輸出産業にお金をばらまいてもザルに水を注ぐようなもので、日本に落ちるカネはそのうちの数割と言うことになりますね」

「まあ、そういうことだな。しかし、こんな簡単な理屈は綾野たちも最初から分かっていたと思うよ。しかし、彼らはそうした政策を続けていった。なぜだと思う?」と、また問われた。高木は、グラスに残ったウィスキーを仰ぐとバーデンダーにお代わりを頼み、その間しばし考えた。下手な答えをすると今度こそ大目玉が飛んでくると思うと同時に、『こんな情けない部下を残しては辞められない』と言ってくれることにも期待している自分も感じていた。

「嘘でも良いので、自らが放った矢が経済の成長戦略につながると国民に思い込ませたかったからではないでしょうか?」としばらく考えてから答えると、狩野は珍しく相好を崩し「その通りだ。それが政治っていうものだよ」と高木の肩を抱くようにして言った。

「経済政策がいよいよ行き詰りつつあった2年前の2016年の夏には参院選があっただろ。彼は、その参院選に是が非でも安定過半数以上を確保したかった。消費税増税を2年間先送りしたのもそのための布石だ。このタイミングで下手な増税などして経済が失速でもすれば、それこそ政権が持たなくなる。さらに、直前のサミットでは、議長の立場を利用して、国際経済が危機的状況にあるという一節を首脳宣言に盛り込ませようとまでした。さすがにこの演出は欧州の首脳からの反対意見もあって頓挫したが、彼は『自分が進めてきた経済政策の効果が一向に現れないのは、国際間の緊張と世界経済の停滞に原因があり、政策自体は決して間違っていない』と主要国の首脳たちにも言わせたかったのだろう」

 

「それにしても、総裁選で再選確実と言われていた綾野総理が出馬を取り消したのには驚きました。あの記事を最初にスクープされたのも狩野さんでしたが、かなり以前から情報は掴んでおられたのですか?」と高木が聞くと、狩野は少し難しい顔をしてグラスを呷り、周囲を気にするように声を落として話し出した。

「綾野が出馬を断念したという情報に最初に接したのは、社会保障省の宇部審議官と会ったときだった。宇部という男は政治家にべったりの男で、永田町情報には誰よりも精通している。医者出身のノンキャリで、大した手柄も上げていないのに審議官にまで昇りつめられたのは、そうした政治家との深い関係がモノを言ったのだろうな」と独り言のようにつぶやいた。高木は、宇部審議官の警戒したような上目づかいで相手を見つめる風貌を思い浮かべた。

「綾野はもともと社会保障省に近い男だろ。ある意味で社会保障省の利益代弁者だった。だから、経済再生の本丸とも言える社会保障改革には端っから及び腰だった。しかし、国内消費や設備投資が一向に上向いてこないなかで、国の借金ばかりが増えるだけで、国の財政は限界をはるかに超えていた。日銀と結託して続けてきた金融政策も限界にきており、もはや打つ手なしの状態だった。マイナス金利状態のなかで、頼りのメガバンクまでが国債の受入れを渋ってきたのだからどうしようもない。

君も知っている通り、国債は日銀が刷ったカネを国債として買うことで、政府にその資金を渡すことだが、日銀による国債の引き受け行為は財政法で禁止されている。カネを自分で刷って政府に融通することは、誰の目から見ても不自然な行為としか思えない。しかし、大胆な金融政策では、一旦国債を民間銀行が買い取った後すぐに市場に売出し、それを日銀が大量に買うという迂回ルートを設けて、いわば法の盲点を突いた政策を展開した。たしかにこれ以上大胆な金融政策はないよな。しかし、国債の引き受け先である民間金融機関が下りてしまってはそれもできなくなる。

さらに追い打ちをかけるように、英国の国民投票の結果でEUからの離脱が決まり、難民問題で揺れていた欧州に激震が走り、比較的安全な通貨と見られた円が高騰する事態に追い込まれた。まさに経済政策は打つ手無しの状況だった。

こうした状況を打開するための方法はたった一つ、社会保障制度に抜本的なメスを入れて、内需を拡大することで国内経済のファンダメンタルを強化するしかない。このことは、綾野総理自身が痛いほど分かっていたと思う。しかし、社会保障改革には多くの犠牲が伴う。政権の命綱とも言える社会保障省までも敵に回しかねない。社会保障省はまさに利権の巣窟のようなもので、これに連なる政治基盤は極めて広くて強大だ。こうした基盤を敵に回すことは、自分の政治家としての基盤そのものを失ってしまうようなものだ。

綾野総理の政治家として生きる途はただ一つ。自らが一旦身を引いて、社会保障改革を後任者の手に委ねるしかなかったのだろう。笹井議員は、綾野総理に引導を渡した張本人と言われているが、それも半分は事実だろう。もともと、綾野政権が行った金融政策を『偽札財政』と言って批判していた張本人だからな。しかし、いくら党の重鎮から引導を渡されたとはいえ、簡単に『はい、そうですか』などと引き下がるような政治家はいない。綾野は宇部にコトの一端を明かし、自分が身を引いた後の処し方について綿密に話し合ったようだ。綾野からすれば、少しでも社会保障省に恩を売っておきたかったのだろうな」

ここで狩野は一息入れ、グラスに充たされたロックを一気にあおった。相変わらず底なしの酒豪である。

 

「そうした動きの最中に、宇部からある重要情報が持ち込まれたのだ」と言うと、カウンター越しに並べられているボトルの方向をしばらく眺めていた。

「ある日、宇部審議官から俺に会いたいという電話が入ってきた。指定された田町の料亭に行くと、宇部はすでに来ており、広い部屋の掘り炬燵にポツンと座っていた。テーブルには仲居に運ばせた茶道具だけが置いてあった。仲居を下がらせ、宇部自らが茶を淹れて、湯飲みの下に隠すように数枚の書類を俺の前に置いた。この時の奴の手は微かに震えていたな。

書類は、『極秘』の赤い印が仰々しく押されたわが国の防衛に関わる資料だった。『こんな資料を外部の者に見せたら、秘密保護法違反に問われるのではないか?』と思ったが、宇部は上目づかいで一瞬俺を見ると、すぐに視線を外してあらぬ方向をきょろきょろと目を走らせながらじっと黙っている。『見せた覚えはない。たまたま落ちてしまった書類を俺が目にしただけだ』ということにしたいのだろうと思い、俺も心得て茶を飲むふりをしながら書類に目を通した。政治家や官僚が外部に重要事項をリークする際によくやる手だな。紙をずらせば次のページも読めるように、わざわざホッチキスを外した跡まであった。3枚の文書だったので、全体に目を通すまでに5分ほどかかったかな。その間、奴は無言のまましきりに茶ばかり飲んでいた」

「何が書かれていたのですか?」と、堪らず高木がせかすように口を挟んだ。
狩野は、口元に複雑な笑みを浮かべて高木を見やると、高木の耳元で囁くように「徴兵制の必要性を説いた国防省の意見書だよ」と言った。

「3年前の2015年の国会で防衛関連法が成立しただろ。その結果、有事を見越した自衛隊法の改正に向けた検討が水面下で進められていた。もちろん、総理肝いりの極秘プロジェクトだ。そのためには憲法改正も必要になるが、幸いなことに2年前の参院選で改正に必要な2/3の議席が改憲派によって確保できたので、いよいよこの手の議論に火か付いたのだな。有事になれば、今の自衛隊の定員数では当然足りなくなる。その上、任務の危険性に気付いた若者の任官率も減りつつあった。そうなれば、徴兵制の導入も真剣に考えざるを得なくなるというわけさ」

「大変なスクープ情報じゃないですか。なぜ記事にされなかったのですか?」と高木が聞くと、狩野は皮肉な笑みを浮かべ「お前さんなら鬼の首を取ったように記事にするだろうな」とからかうように言った。高木は、かつてスクープを急いだあまり狩野に怒鳴られる羽目になったばかりか、政治家にまんまと乗せられてしまった自分の苦い経験を思い出して、思わず顔を赤らめた。

「まあ、お前さんに限らず普通の記者だったら記事にしただろうな。しかし、そのときの俺は、防衛問題には全くの門外漢であるはずの宇部審議官が、なぜこの情報を俺に暗に見せたのかが気になった。仮に、俺がその気になって、徴兵制が検討されていることを記事にでもすれば、国会は大紛糾して内閣総辞職だけでは済まなくなるだろう。もともと綾野総理に近い立場の宇部審議官が、そんなことをやるはずはない。そこで、茶のお代わりにかこつけてさりげなく書類を彼に返すと、『そう言えば民自党の総裁選も近いですな』と世間話をするように水を向けた。奴は、そそくさと書類をカバンに収めると、ようやく俺のほうに目を向けて『綾野政権のような力のある内閣が続くと、我々も仕事が進んで助かるのですが』と応じた。その後、世間話のような会話が続いたあとで、『ところで、私に話したい用件とは何でしょう?』と彼を見据えて言うと、それを待っていたかのように本題を切り出した。彼が言うには、憲法が改正され有事立法が成立すると、国民皆兵制度に移行する危険がある。その際に力を発揮するのが、社会保障制度改革に名を借りた国民管理の仕組みであり、これには国民の健康と安寧を目的とする我が省として断固立ち向かいたい。そこで、マスコミには是非手を貸して欲しいということだった。つまり、俺を通じてマスコミに、社会保障改革の反対キャンペーンを打ってもらいたいということだな」

「物凄い大胆な発想ですね」と高木が呆れたように言うと、狩野は「その時直感したよ。もはや政府は社会保障省にメスを入れるところまで来ており、綾野総理といえども守りきれない状況なのだということを。綾野総理は、自分の手を汚すことを極度に嫌う政治家で有名な男だ。それを考えれば、社会保障改革に本格的に取り組むために、自分の息のかかった後継者を首班に据え、改革の道筋ができたところで再び返り咲きたいというシナリオは、彼なら十分に考えそうなことだ。俺がそれを言うと、奴さん真っ赤な顔になって知らぬ存ぜぬを繰り返していたがな」

「そういうことですか。仮に綾野総理の続投が既成事実だったら、憲法改正に熱心な総理に不利になるようなリークは絶対にしませんよね。すでに死に体と見きったからこそ、逆転の一手を繰り出して、社会保障改革は国民を不幸にする政策だという印象を、狩野さんを通してマスコミに持ってもらいたかったのでしょうね」と高木が言うと、狩野は「お前さんもかなり物が見えるようになったな。これで俺がいなくなってもあとは安心だ」と相好を崩して嬉しそうに言った。

 

「しかし、社会保障改革関連法に書かれている、国民に寄り添った最適なケアの実践といった内容は、取りようによっては政府による国民管理にもつながりますよね。その辺りの懸念は国民の間でも完全には払しょくされていないと思うのですが」と高木が言うと、狩野の目に再び真剣な光が戻った。
「2つの点で、マスコミはこの問題に慎重に対応すべきだと考えている。言い換えれば、マスコミの見識が試される場面が、いよいよ到来したと思ってかかるべきだろう。

まず肝心なことは、改憲論議の行く末だ。そもそも憲法は、政府や行政などの公的執行者の行為を規定するものであって、国民には教育や勤労、納税と言った社会生活を営む上で必要最小限の義務以上のことは、決して押し付けてはならない。70年以上も前に作られた憲法だから、時代にそぐわない部分があるのは当然だし、それを改正することには異論はない。その意味で、俺は改憲論者なのかもしれない。しかし、改正すべき内容こそが重要であって、国民の権利や戦争の永久放棄といった憲法の精神そのものに手を加えることは決して許されるものではないと俺は考える。この原則は、敗戦から営々と培われてきた国民的なコンセンサスでもある。政府による国民管理などという考え方は、今の憲法では全く付け入る隙すらない絵空事だ。改憲するとしても、最低限この考え方を堅持していくことがまず大事だと思うな。

次に注視すべきことは、リベラル派のような顔をしてあらぬ危機感をあおりたててくる輩たちだ。社会保障改革関連法が成立するのは時間の問題だろうが、君の言ったように国民に寄り添うことは国民の管理につながると主張する奴は必ず出てくる。宇部審議官のように、自分の利権を背負っている者たちは、一斉に国民を守るためと聞こえるような意見を主張してくるだろう。まさにポピュリストたちがよく使う手だ。それに騙されてしまうと、改革法は廃案に追い込まれてしまう可能性すらある。廃案にならないまでも骨抜きにされ、日本は破たんへの道をまっしぐらに進むことになるだろう。憲法改正論議のように、論点が明確に見える議論ではないため、かえってタチが悪い。村元総理が改革法案提出の際に述べたように『強い意志を持って果断に実行すること』こそが、これから問われてくる。改革の正念場は、まさに法律が成立した後にあると俺は断言する」

「我々マスコミ人も、そうした声に騙されないように注意してかからなければいけませんね。それだけに、今後日本がどうなるかの大事な瀬戸際に記者をお辞めになるということは、益々承服できませんよ」と、再び高木はなじるような目を狩野に向けた。

「笹井議員が、別れ際に政界引退を仄めかしただろう。あの真意ってお前さんには分かるかい?」と狩野は再び問いかけてきた。高木が首をひねって考えていると、「俺には何となく笹井議員の心境が分かるような気がするな」と続けた。

「社会が大きく変わるときは、得てして改革の中心にいた者は邪魔になるものなのだよ。たとえその人物がいかに改革の功労者であろうとだ。『新しい酒は新しい革袋に盛れ』と言う諺のとおり、改革の第一線に立っていた者ほど、改革の実行段階で異を唱えたくなるものだ。明治維新後に西南戦争を起こした西郷隆盛然り、中国共産党が政権をとったあとに文化大革命の名のものに大粛清を行った毛沢東然りだ。理想が高い奴ほど、自分が率いた改革の結果を見るにつけ『こんなはずじゃなかった』と不満を感じるものだ。笹井議員は、改革が軌道に乗り始めた今こそ身を引くべき好機と思ったのかも知れないな。俺の読みでは、改革に燃えている村元総理も、改革が一定の軌道に乗った段階で総理の座から降りると思っている」

狩野は、グラスに残っていた酒を一気に呷ると、代わりのグラスを用意しようとするバーテンダーを手で制し、高木のほうに優しい目をして向き直った。

「しかし、俺自身はそんな大層な理由で辞める訳ではないぞ。武本局長にも告げたとおり、俺は新聞社を辞めても記者まで辞めるわけではない。むしろ、自由な立場でこれからの改革の行く末と、日本の未来を正確に見つめていくことが、俺に残された天命だと思っている」
「それは、毎朝新聞に残られてもできることではないですか?」と高木が口を挟むと、「紙と鉛筆だけで記事を書いてきた俺を知っているお前さんが聞いたら驚くだろうが、パソコンを真剣に勉強しようと思っている。ネットで自由にモノが言える世の中で、いつまでも紙にばかり頼っていてはいかんと前から思っていた。

ネットの普及で、誰もがイッパシなことを主張できる時代になった。だからこそ、記事の正確性が重要になってくる。玉石混合の情報が溢れ返るなかで、正しい情報を発信することは非常に難しいが、同時にとても大事なことだ。なぜなら、今やネット情報のほうが、テレビや新聞に比べてはるかに訴求効果が高いからな。

政治家は信用できないと言ったが、国を引っ張っていくリーダーの存在は不可欠だ。それだけに、公正で正確な情報を世の中に伝えることが何より重要になる。日本の国民は決して愚かではない。正しい情報をタイムリーに伝えることこそ、メディアに携わる者にとっての唯一無二の重要な使命だ。困難な挑戦になるだろうが、俺の残りの人生をそれに賭けられたら、それこそ記者冥利に尽きると思っている」
狩野は静かにそう告げると、高木に右手を差し出して握手を求めた。高木の手を力強く握った狩野の分厚い掌は燃えるように熱かった。

 

【終】

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