本コラムでは、幻冬舎ルネッサンス宛にご応募いただいた、読者の方からの寄稿文をお届けします。どうぞご覧ください。
大型LEDビジョンや看板に目を奪われ、足元に留意する間もなく群衆の波が交互に押し寄せる渋谷のスクランブル交差点。
都会を象徴するこの場所では青信号に変わるたびに約3000人が交差し1日あたりの通過人数は約50万人といわれている。
スクランブルという言葉には〝繁華街の交差点で、信号の一種として、車をすべて止め人間に自由な方向に歩く
ことを許すもの〟又は〝ひっかきまわす〟という意味合いがあるらしい。
物事が時間通り滞りなく行われるのがあたりまえで、効率良く過ごすのが都会で生きる社会人の基本である。
最小限の労力と時間で最大限の結果を出さなければ、世の中のペースに乗り遅れてしまうのだ。
多種多様な人々はそれぞれが目的の為に足早に歩いていく。
そんな交差点の沿道の広場で、信号が点滅するリズムと同調するかのように体を揺らす人集りができていた。
その導因は、ポップロックチューンのバラード曲を披露している一人のストリートミュージシャンだ。
信号の点滅が終わると、奏でているチェリーサンバースト色のアコースティックギターをストローク弾きからア
ルペジオに変えた。
すると曲がスローバラードへと変わり、ストローク弾きのときには姿が見え隠れしていたボディのハチドリがよ
く確認できた。
ネイティブ・アメリカンの間では、ハチドリは愛と美と幸せの象徴であるといわれている。
平和のメッセンジャーとして、人生の困難に際して、導きを与えてくれているといい伝えられており、大きな出
来事の前にハチドリを見ることは、吉兆であると考えられていた。
広場に咲く桜の木の下では、日本の平和のシンボルが首を前後に振りながら曲のリズムに乗っている。
ひらひらと舞う桜の花びらのように滑らかに動く指から鳴るメロディに、甘く澄み透った歌声が重なる。
交差点では速やかに動いていた足を微動だにさせなくなった観覧客の頭上には花びらが心地よく何枚も着地して
いた。
そしてアルペジオの指が柔和に止むと、鳥の囀(さえず)りは終わった。
「おおきに」
幼稚園を中退してから義務教育を拒否し、父との喧嘩が原因で15歳のときに大阪の実家を飛び出したニトロは
ギター片手に全国を放浪している吟遊詩人である。
本名は西本太郎(ニシモトタロウ)というが、太郎というありきたりな名前が嫌で、フルネームを略したニトロ
と周りには呼ばせている。
歌い終えたニトロは、右ポケットから取り出したスキットルの蓋を開け、それを一口流し込んだ。
喉元を通り過ぎたウイスキーの芳醇さを堪能していると、観覧客の中の男が話しかけてきた。
「いやぁ、お兄さんの歌声エモいですね! 最後の曲、心にジーンときましたよ!」
「おおきに。 まぁ、巷では〝ナニワのエモイスト〟って呼ばれてるからなぁ」
「今夜、この近所のクラブでイベントをやるんですけど、よかったら招待するのできてください」
男はニトロにイベントのチケットを手渡した。
「へぇ、それはどんなイベントですのん?」
「人工知能を使ったメディアアートのDJイベントです」
「めっ、めであ…… あーと?」
「人工知能に作曲をさせてその曲を流すんです。 一応、名刺も渡しておきますね」
名刺を渡した後、男は少しハニかんだ笑顔で軽く手を振りながらスクランブル交差点の雑踏に埋もれていった。
「み、か、み、たかひこ…… へぇ、すりーでーぷりんたの会社を経営ねぇ……」
ニトロは受け取ったチケットと名刺をストロークのように流し読みしたあと、それを握りつぶしながらズボン
の左ポケットへと突っ込み、ギターを丁寧にケースへと閉まった。
そして、後ろに折りたたんで置いていた直径2メートルほどの台を拡げて観覧客の前に置き、不気味な笑みを浮
かべながらその上に品物を並べていると、一番前で缶チューハイを片手に持ちながら観覧しているツーブロック
ヘアスタイルのサラリーマンの呟く声が聞こえてきた。
「あぁ、ほんと仕事ってめんどくせーー。なんかラクして稼げる方法…… 誰か教えてくんねぇかなぁ」
観覧客が更にぞろぞろと集まりだすと、ニトロは着ているパーカーのフードを被り、先ほどの鳥の囀りとは裏腹
に、心の芯に突き刺さるような尖った虎の咆吼(ほうこう)が始まった。
「それでは本日の品物を紹介するぜーー! ヘイッ、プチャヘンザッ!」
ニトロは、一番前で観覧しているサラリーマンにライムする。
「チューハイ飲みながら 他人を崇拝
一杯じゃ足んねえからいつの間にか数杯
take takeばかりの半端野郎
テクテク自分で歩いて考えろ、yeah!」
サラリーマンは罵られたと感じたのか、怒りを露わにする。
「おい! テメェ、それはどういうことなんだよ?」
「超えたいzone 秘訣売り場ばかり通い
なにかに依存 してるうちはカナリヤ鳥
それじゃ飛べない鳥 出れない 鳥カゴ
羽ばたきたいなら 与えろ only oneを!」
「おい! ふざけんなよ!」
ニトロは台の上の商品を手に取り、それをマイクにしながら鋭い目つきでライムを続けた。
「目に映る車窓 満員山手線
前に立つ女装 menイン長袖で
膨らむ妄想 うたた寝 顔寄せて
羨むモノ 掴め 孫の手で」
「それ、ただの孫の手だろ? そんなの孫の手なんかで掴めるわけないじゃねぇか! バカじゃねぇの!」
「人を裁くだけの揚げ足取りとネガティブは楽だ
サハラ砂漠で火傷オマエは一人ヒトコブラクダ、yeah!」
「はぁ? 別にネガティブで上等だし」
「真夏で面倒くさい 太陽で 顔真っ赤さ
がさつで無限に独裁 マジ非情で サドマッカーサー
傘いらずで不変に朝来 cry youでwet 枕さ
ダサいマヌケ無銭に能無し な才能でお先真っ暗さ」
「おいテメェ! ふざけんなよ!」
サラリーマンの怒りが最高潮に達しそうなのを見計らったニトロは、ラップを一旦止め、普通に話しかけた。
「コレは…… ただの孫の手とちゃうで?」
「はぁ? どっからどう見てもただの孫の手じゃねぇか!」
ニトロは孫の手の掻く側の先端部分をボールペンのキャップを外すように引っ張った。
すると、手の部分が外れ、耳かきのような先端に変わった。
「ほら見てみ」
「なっ、なんだコレ?」
「ちょっと失礼」
といいながらサラリーマンが着ているシャツをズボンから出しお腹が見えるようにめくり上げた。
「ちょっ、何してんだよ」
「やっぱりや……」
「何がだよ?」
「へそのゴマが溜まっとるわ」
「へっ、へそのゴマ!?」
「この孫の手はなぁ、へそのゴマ取り機能付きなんや」
「なんだよそれ……」
ニトロは再びライムを始める。
「閉ざされたその穴は 生まれる前みんなが
お腹出た頃の母と 繋がってたwith マザー
Babyの頃は 好奇心にあふれ
形式こだわらず そのままに
Daily この時代は情報にあふれ
正式に 歩むべき方向を忘れ
詰め込みすぎて 失ったパッション
受け取りすぎて すき間無く雑音
そろそろ揚げ足取りよりも へそのゴマ取り
ゴソゴソと閉ざされたドア 開けゴマSo key
空っぽになって 見える新世界
騒ごうみんなで あるぜイイ出会い
詰め込まないが 秘訣大正解
夢追わないか キメる大航海yeah」
「でも…… どうせ俺なんか何やってもダメだよ……」
「勇気が無いなら ただのカス
弱くて 臆病 な 天邪鬼
果たそうぜ いつかは 下剋上
巻き起こせ 自らレボリューション」
「そんなこと言ったって、やり方がワカンねぇよ……」
「アイデンティティを愛でエントリー
内戦終わり fight end free
孫の手は100パー を please
その愛はパスワードフリー
傷つけあう 心の貧しさに
そう気づかず Do not 語り合い
気遣う その優しさに
もう傷つかず Hold’on 固い愛」
「なんだか…… お兄さんのラップ聴いてたら、やれそうな気がしてきたよ! その孫の手、俺に1つくださ
い」
「サンキュー、ブラザー! あっ、お金はこの箱に入れてや」
品物を受け取り清爽な表情で去っていったサラリーマンを見送った後、前に立つ買い物袋を下げる主婦を見たニ
トロは、台の下からダンボールに文字を書いたフリップを取り出した。
「えぇ、それではここで、この品物を手に入れなかった方からの体験談を発表したいと思いまーーす!」
「えっ、〝手に入れていない人〟の話? 商品を使った感想とかではなくて?」
ニトロの発言に驚いた主婦が呟く。
「では、この孫の手を手に入れなかった方からの体験談です。
神奈川県在住 50歳 主婦の方からの体験談。
マサチューセッツ工科大学を目指して受験勉強をしていた息子が、アル中セッツ硬化大学に入学してしまいまし
た。
孫の手を手に入れていればこんなことにはならなかったのに……。 工科大学に入れなかった上に肝臓が硬化し
ないかが心配です」
それを聞いた主婦は、どこか腑に落ちない顔をしながら口を開く。
「その件は孫の手があれば解決できた問題なの? 別に孫の手は何も関係ないんじゃないかしら?」
ニトロはその疑問に答える。
「背中には、〝命門(めいもん)〟というツボがあります。これはちょうどおヘソの真裏にあるツボなのですが、
このツボは、命に力を付けると言われており、気や血の流れを整えて気力や体力をパワーアップし、精力増強の
効果も期待できます! つまり、この命門を、孫の手に付いてあるゴルフボール型の突起部分で刺激するので
す! この孫の手の突起部分を上にした状態で床に置き、そこに仰向けで寝そべるだけです! ちょー簡単!
人は気力、体力、精力さえあれば乗り越えられない問題などないのです!」
「あの…… それ一つ貰おうかしら?」
「サンキュー、ママ」
ニトロが順調に商品を売りさばいていると、
「ちょっとキミぃ! ちゃんと許可取って商売やってんのぉ?」
紺色の制服を着た地方公務員が話しかけてきた。
「いやいや、これは商売じゃないですよ!」
「そんなこと言ったって、この箱にちゃんとお金が入ってるじゃないかぁ!」
「お巡りさん、この箱をよく見てみなさい!」
箱を見ると〝募金箱〟と書かれている。
「ぼっ、募金箱だとぉ!」
「そうでーーす! この商品はお客さんに売っているのではなく、プレゼントしているのでーーす!」
「でも、ここに商品の値段が書いた張り紙がしてあるじゃないか!」
「あぁこれね、お巡りさん…… この紙をよく見てごらんなさい」
紙を見ると、〝参考価格として、◯◯円です〟と書かれてある。
「なんだよ! 参考価格って! しらじらしいなぁ!」
「いくら募金したらいいか分からないお客さんの為に、こちら側から参考金額を提示してあげているのでーー
す」
「ちょっと! アンタ邪魔よ! どきなさい! 私の息子が、アル中硬化大学に入学してしまったらどうするの
よ!」
台の前に立ちはだかる地方公務員を払いのけて品物を受け取り、募金箱にお金を投入する中年女性。
「あっ! お巡りさーーん!アソコのハゲオヤジ、なんか悪いことやらかしそうな顔してるよ! JKとハゲオ
ヤジが並んで歩いているよーー!」
ニトロは交差点を指差しながら言う。
「ふんっ! 勝手にしやがれ!」
そして自転車で去っていく国家公務員に中指を立てていると、
「あの…… ちょっといいですか?」
「ん? 次はなんや?」
その呼び声に振り向くと、
「ぼっ、僕を弟子にしてください!」
「え? なんて?」
「だから…… 僕を弟子にしてください!」
「からの?」
「えっ…… からのって?」
「おいっ、兄ちゃん!」
「はい……?」
「職業は?」
「ライフプランナーをやってます!」
「えっ、なにそれ?」
「保険商材を用いてお客さんが安心できる人生を設計する仕事です。わかりやすくいうと保険営業マンです
ね!」
「例えばやで? 初対面のお客さんに対していきなり〝我が社の保険に加入してください!〟ってストレートに
お願いするかい?」
「いえっ…… そんなことは……」
「キミの嫌いな食べ物はなぁに?」
「ニンジンです」
「OK! 自宅はこの近所かい?」
「はい、まぁ近いですけど」
「それでは、今から〝おーでしょん〟を始めます!」
「おーでしょん? オーディションのことですか?」
「それそれ! では、これからキミの自宅にでも行こうか!」
「でも僕…… 実家ですよ?」
「実家で結構、ケッコー、柴咲コウって感じやわ」
「わかりました」
ニトロは品物を片付けながら、客衆に向かって閉店アナウンスをする。
「えぇ、本日のMCニトロ店(テン)SHOWはこれにて終了でございます。 またのお越しをお待ちしており
ます」
片付けが終わると、品物が入った段ボールを指差しながら、
「なぁ、これ〝落し物です〟って言ってそこの交番に届けてくれへん?」
「えぇ! どうしてですか?」
「だってこの荷物をキミの家まで運ぶの面倒くさいやん。 だから、ポリスメンに預かって貰おうと思って。
あっ、これもおーでしょんの審査に入ってるかもしれへんでぇ」
不気味な笑みを浮かべながら言う。
「わ、わかりました……」
そして、交番に荷物を届けた後、
「キミ、名前は?」
「武井浩輝(タケイヒロキ)と申します」
「OK、ヒロキやな。 俺はブラッド・ピットが好きやから周りからはジョニー・デップと呼ばれている! だ
からニトロって呼んでくれ!」
「……は、はい」
「なんやねん、オマエは! もうちょっとリアクションせぇや! そういうところ特に審査に響くからな!」
「はい! すいません!」
「もう戦いは始まっとるんやで! 今日は何曜日やったっけ?」
「金曜日です!」
「決戦は金曜日なんやで!」
「……は、はい」
「だから、リアクションせぇっちゅうねん! 今のはドリカムボケでしょうが! そういうところやぞ?」
その二十分後––
二人はファミリーマンションへ到着した。
浩輝の自宅はその十階だった。
「おっ、なかなかええトコ住んでるやんかー! そういえば、ヒロキって何人家族なん?」
「祖母と両親、姉の五人家族です」
「へぇ、他の家族は今、家におらんの?」
「祖母は具合が悪くて部屋で寝込んでいます。 両親は二人とも知人のお葬式で海外へ行っているのでおそらく
帰りは明後日になると思います。 姉はもうそろそろ仕事から帰ってきますね」
「おばあちゃん、具合悪いの? 大丈夫なん?」
「具合が悪いといっても、メンタル的なことが原因で……」
「そうなんや……」
浩輝はリビングでスーツのジャケットをハンガーに掛け、カバンから取り出した仕事の資料をテーブルに置いた。
「そういえば、晩飯まだ食ってないんやろ?」
「はい、まぁ」
「ちょっと台所かりるで。 冷蔵庫のモノ適当に使ってもいい?」
「えぇ! 晩御飯作ってくれるんですか! それはありがたいです! 今日は外食で済ませる予定だったんで」
数分後──
「ジャーン! 出来上がりー!」
「わぁ、お好み焼きですね! 美味しそー!」
「ごっつウマイで! さぁ食べよ食べよ!」
浩輝は踊る鰹節に息を吹きかけながら口へ運ぶ。
「めちゃくちゃ美味しいです! 今まで食べたお好み焼きの中で断トツ一番です!」
「当たり前やんけ! 本場の関西人が作るお好み焼きをナメるなよっ!」
ドヤ顔しながら尖らせる唇には青海苔が付いている。
「そういえば…… なんでヒロキみたいなキッチリとした社会人が俺みたいな流れ者に弟子にしてくれって頼ん
できたの?」
「実は今、仕事の結果があまり芳しくなくて…… 営業成績が会社で最下位なんです……。 そんなときに、
さっきニトロさんが露店で商品を売りさばいているのを目にして、是非ともそのテクニックをご教示いただきた
いと思いました!」
「ふーーん。 ちなみにあれは商品を売っているのではなくて、ゲリラプレゼントね! そこんとこ勘違いしな
いように!」
「はい、すみません。 でも、僕…… どうして結果が出ないのかが、さっぱりわからなくて。 一応、商材
知識は勿論の事、営業マニュアルは全て頭に入ってるのですが……」
「あらそう。 それより、ヒロキは彼女とかおらんの?」
「一応いますよ」
「へぇ、どんな人? べっぴんさん?」
「彼女は看護師をしています。 まぁ、そこそこ美人だと思いますよ。 ニトロさんは?」
「俺は最近、失恋したばっかりや…… その傷心旅行で、こうして歌いながら全国を回ってんねん」
ニトロはテーブル横に立てかけたギターケースの先を二回叩きながら言った。
「そうだったんですね。 でも、ニトロさんってどんな人がタイプなんですか?」
「えっ、聞きたい?」
「うん、聞きたい!」
「それはなぁ……」
ニトロは手に持っているお箸で宙に三角を描いた。
「ワキの大三角の持ち主や……」
「ワッ、ワキの大三角? なんですかそれは?」
「ワキにデネブ、ベガ、アルタイルが観える人や!」
「なんだか、夏の大三角のように言いましたけど…… つまりは、ワキフェチという解釈でいいんですかね?」
「〝ワキで天体観測ができる女性〟または〝女性の形をしたプラネタリウム〟とも言えるなぁ…… なんせこの
星の位置のバランスが重要なんや……」
望遠鏡を覗き込むそぶりをしながら熱弁するあまり、手に持っていたお箸はテーブルの下に落ちている。
「でも、そんな人ってなかなか見つからないんじゃないんですか?」
「まぁ、そうおらんわなぁ…… 三つの星を持つ女は……」
「なんだか、七つの傷を持つ男みたいですね……。 ワキかぁ。 僕には何がいいのかさっぱりわからない
や」
「はぁ……。 これやから想像力の乏しい人間は困るねぇ。 この男のロマンがわからないかい? どうせオマ
エはあれやろ? ヨガとかスムージーとか、そういうことをするような人が好きなんやろ?」
「でも、ヨガやスムージーは美容のためにやっている良いことじゃないですか!」
「何がヨガとスムージーじゃ! そんなもんラジオ体操と、おさ湯でええねん!」
「そんなの今どき流行らないですよっ!」
鰹節の踊りが終わったころ、玄関のドアの音がした。
「ただいまーー」
「あっ、姉ちゃんが帰ってきました」
「浩輝、誰かお客さんでも来てるの?」
姉がリビングに姿を覗かせると、ニトロはテーブル下に落としたお箸を速やかに拾いながら自己紹介をした。
「マイネームイズ ニトロ レペゼン大阪
お好み焼きは マヨネーズwithソースPaint a lot ええねん あおさがyeah!」
「あら、ミュージシャンの方?」
テーブル横のギターケースを見て問いかけた。
「はいっ! ストリートで心の叫びを唄ってますっ! お客さんからはよく〝歌声が甘すぎて虫歯になるよ〟と
言われるので、念のためにマウスウォッシュを常備していますっ!」
「ユニークな人ね。 後で1曲お願いしてもいいかしら?」
「もちろん! あっ、さっきお好み焼き作ったんですけど、よかったらお姉さんもいかがですか?」
「まぁ美味しそう! でも、私さっきヨガに行ってきた帰りだから、今夜はスムージーだけで我慢するわ」
「ヨガにスムージーとは…… まるで東京スカイツリーのように美意識の高い素晴らしいお姉さんだ!」
「ちょっと、ニトロさん! さっきと意見が違うじゃないですか!」
「何を言ってるのかね、ヒロキ氏。 ヨガ+スムージー=素敵レディという公式は、くもんでも教えられている
常識ではないか!」
「そんな公式、聞いたことないですよ!」
「こんな弟ですけど、仲良くしてやってくださいね」
「あれっ!? お姉さんの声は聞こえるけど、 姿が見えないっ! おーい、お姉さんドコーー?」
水平にした右手を額にあて、周りをキョロキョロと見渡しながらいうニトロ。
「急に何言ってるんですか! 姉ちゃんならそこに立ってるじゃないですか!」
「あっほんまやっ! お姉さんの透明感が凄すぎて…… 一瞬、姿が見えへんかった……」
「やだもぉ。 さて、私はお風呂にでも入ろかなっ」
ヨガウェアを着たままの姉は髪の毛を縛っているシュシュを外しながらお風呂場へと向かった。
(今…… ほっ、星が見えた……)
そしてニトロは脱衣場の扉の音が閉まるのを確認してから、
「ちょっと、浩輝くん……。 お姉さんは今、お付き合いされている人とかはいらっしゃるのかね?」
「いや、今は一応いないですよ」
「ふーーん。 あらそぅ。 さてと、食後のシンギングタイムといきましょうかな。 お姉さんがお風呂上がる
までに喉のチューニングをしておかないとっ」
ニトロはテーブル横に立てかけたギターケースに手を掛けた。
「おっ、歌ってくれるんですね! 何の曲を聴かせてくれるんですか?」
ギターをケースから取り出したとき、テーブルの上に置かれてある浩輝の仕事資料に紛れて、小学生用の音楽の
教科書があるのに気がついた。
「あれ? 何で小学生の音楽の教科書なんてあるんや?」
「あー! やってしまった!」
「え? やってしまったって、どういうこと?」
「実は今日、保険加入を検討されているお客さんが、ランドセルを背負った小学生の娘さんも一緒に連れて面談
に来られたんですけど、その娘さんが学校で鍵盤ハーモニカの発表会があるということで、練習してたんですよ。
正直、その音がうるさくて商談どころではなかったんですけどね」
「それで、資料と一緒にその教科書も持ち帰ってしまったということか」
「明日から三連休で学校休みだから良かったけど、急いで返さないと」
「よしっ! ほんじゃあ、この曲に決めた!」
ニトロは教科書を開き、ギターをアルペジオで奏でた。
そして鳥の囀りが終わると──
「凄くよかったです…… 感動しました」
「おおきに」
「なんか…… ニトロさんって、唄うとガラッと印象が変わりますね。 さっき露店販売してたときと大違い」
「そうかしら? ちなみに、あれは露店販売ではなく、ゲリラプレゼントね! そこんとこ勘違いしないよう
に! あっ、これ言うの2回目ね! 今ので1点減点しておきます」
「審査厳しいなぁ……」
二人が雑談していると、リビングの前にある和室の襖(ふすま)が開いた。
「あの…… 今の歌、もう一度聴かせてくれませんか?」
「ばっ、ばあちゃん!? 具合は大丈夫なの?」
襖から顔を覗かせ、呟いたのは浩輝の祖母だった。
「これはこれは、ヒロキ君のばあや様! もちろん、いくらでも唄いますよ!」
そしてニトロが再び鳥の囀りを披露し終えると──
「ありがとう……」
歌が終わるとそう言い残し、祖母はゆっくりと襖を閉めた。
それを見届けた浩輝が言う。
「実は…… 数年前にじいちゃんが亡くなりまして…… それからというものの、ずっと体調を崩しがちで、
好きだったゲートボールもやらなくなっちゃって」
「そういうことか。 長年、人生を共にした伴侶が居なくなるということは、そりゃ寂しいはずやで」
「亡くなった当時は僕もすごく辛くて、立ち直るのに時間が経かりましたが……。 やはり、ばあちゃんが一番
堪えたみたいで……。 ずっと部屋に篭(こも)りっきりだったのに、今日は珍しく出てきたのでびっくりしま
したよ」
「なるほどね。 なぁ、ちょっとトイレかりてもいい?」
「どうぞ。 そこの廊下を真っ直ぐいって右のところです」
ニトロがトイレに行ってから、浩輝はテーブルに立てかけたギターの弦を人差し指で撫でてみた。
撫でるだけでは我慢できなくなり、ページがそのままにされてある音楽の教科書を見ながら徐(おもむろ)に弾
いてみたが、ついさっきまで聴こえていたメロディは鳴らない。
そのまま一曲歌い終えたあと、あることに気がついた。
このギターの持ち主が戻らないのである。
浩輝は気になってトイレへ向かうが、電気が消えている。
すると、脱衣場の方から物音がしたのでその扉を開けてみると––
「ちょっと、ニトロさん!? 何やってるんですか?」
「……いや ……その、お姉さんにリンスを持ってきてって頼まれたから……」
ポケットからマウスウォッシュを取り出したニトロは、
「ほら!」
「それは、デンタルリンスじゃないですか!」
「あっ、ほんまや! 間違えた!」
「そんなこと言って! どうせ姉ちゃんのお風呂を覗こうとしてたんでしょ? 本当に油断もスキもない人だ
なぁ!」
「からの?」
「からの? じゃないですよ! もぉふざけないでくださいよ!」
そして浩輝に連行されていった社会不適合者は、リビングのテーブル前のソファに寝転がり、テレビを付けた。
「今日のMステは誰が出てるかなぁ」
初対面の他人の家という意識もなく厚かましいこの男は、右手小指で鼻の穴をほじりながらいう。
「おーーい! ヒロキくーーん! なんかスナック菓子的なものはないのかい?」
「確か……戸棚にあったはずだな」
「なら今からそれを、ここへ持ってくるテストをしてみようか」
「は、はい…… しばしお待ちを……」
ニトロが自分の家のようにリラックスしていると、隣の和室から木槌(きづち)で何かを突く音が聞こえてきた。
気になって襖(ふすま)を空けて覗いてみると、祖母がゲートボールの練習をしていた。
「おっ、おばあちゃん、なかなかヤルねーー」
「あら、そうかしら」
「お菓子お待たせしました!ってあれ? またニトロさんがいない!」
祖母の部屋の畳で寝転がっているのに気づいた浩輝は、
(えぇ! ばあちゃんがゲートボールやってる!)
「おばあちゃん、いい腰してるねーー! 若いときは男をブイブイいわせてたんでしょーー?」
「オホホ、まぁね!」
いつの間にか祖母と馴染んでいるニトロのほうへいき、
「お菓子お待たせしました!」
「おぉご苦労、ご苦労」
ニトロは前に置かれたお菓子を見て、
「でも、この盛り付け具合がちょっとイケてないなぁ…… もっとこうパァーッと華やかに見えるやり方がある
やろうパァーッと」
「すみません…… 勉強します……」
「そういうところやぞ」
(しかし、こんな元気なばあちゃん…… 久しぶりに見たなぁ)
浩輝が感慨に耽(ふけ)っていると、祖母が撃ち放ったショットに衝突したボールがニトロのほうへ勢いよく転
がっていった。
「ぬぉぉーー! 俺の東京スカイツリーがぁぁーー!」
「あらやだ! ごめんなさい!」
「もぉーー! おばぁちゃーーん! ちょっと、かんべんしてよぉ! 当てるのはこっちのボールじゃない
よーー!」
その一部始終を見ていた浩輝は笑いを堪えながら、
「ニッ、ニトロさんが寝転がって見てるから悪いんですよ」
そこへ、風呂から上がってきた姉が笑顔の祖母を見て驚いた。
「あら、おばあちゃん! 一体どうしたの!?」
「今日はなんだか体調が良くてね」
「本当に大丈夫なの?」
「トロ吉ちゃんがお歌を聴かせてくれたから、なんだか元気が湧いてきて」
「そうなの…… ニトロさんが唄ってくれたんだ」
「あの曲は、出会った頃のおじいちゃんがよく唄ってくれた歌でね……」
「おじいちゃん、歌大好きだったもんね。 私が小さい頃よく子守唄で寝かせてくれたわ」
寝転んでいたニトロは起き上がり、
「おじいちゃんの最後は、病気か何かかい?」
と神妙な面持ちで質問すると、姉の凜とした切れ長の目が少し虚ろになった。
「実は…… おじいちゃんとおばあちゃんは元々私たち家族とは別で2人で暮らしてたんだけど…… その地域
が震災の被害に遭ってしまって…‥ 」
「あの震災の被害に?……」
姉は黙って頷き再び口を開いた。
「おばあちゃんは、偶然、ゲートボールの大会で他の地方に行っていたおかげで大事には至らなかったのが不幸
中の幸いで……」
ニトロが真剣な眼差しで耳を傾けていると、祖母がぼそっと呟いた。
「あの震災で…… みぃんな壊されちゃったの…… おじいさんも、何もかも……」
その言葉の重みを受け止めきるのに少し間があいた。
「そうか…… おばあちゃん、ゴメン…… 辛いこと思い出させてしまったね……」
「いいのよ。 そろそろちゃんと受け止めないとね。 この1枚だけ残った写真を宝物に残りの人生もうひと頑
張りしなきゃ」
気丈な振る舞いをする祖母を見つめる姉の頬には涙の轍(わだち)ができている。
「やっぱり、私…… 愛する人が急にいなくなってしまうと思うと…… とても結婚なんて考えられない……」
「何言ってるの! お姉ちゃんは2日後、素敵な人とのお見合いがあるでしょう? そのご縁を大切にして、
ちゃんと幸せな家庭を築くのよ」
ニトロは四十五度に傾けた右手を口にあてながら浩輝に小声で囁いた。
「なぁなぁ、お姉さん、2日後、お見合いするってマジ?」
それに浩輝も小声で応える。
「はい。 相手は父さんの取引先の社長の息子さんみたいです」
「2日後かぁ…… あっ、そういえば!?」
「急にどうしたんですか?」
「ちょっと野暮用を思い出したから、俺はこれで失礼させてもらいますわ」
ニトロは祖母と姉に軽く会釈をした後、ギターを抱えた。
「ニトロさん、あの…… 僕のオーディションは?」
「あぁ、それな。 まぁ結果は、厳選なる審査をした上で後日、ご報告いたしますっ!」
「わかりました! あの、連絡先を交換してもらっていいですか?」
「OK! はいコレ!」
ニトロは何かを手渡した。
「えっ、コレって…… 糸でんわ?」
「あの、LINEのIDを教えてもらえますか?」
「それ、ちゃんとLINEもついてるやんけ」
「ラインって…… これただの糸じゃないですか! あの、携帯電話は?」
「そんなもん持ってないわ」
「えぇ……」
「用があったら又こっちから出向くわ。 あっあと……」
「はい?」
「今日食べたお好み焼きの中にはニンジンが入ってたんやで」
とだけ言い残し、家を出た。
そして浩輝宅を出て20分後––
ニトロは渋谷のクラブへとやって来た。
左ポケットの中から、シワクチャになったチケットを取り出し、受付に渡す。
会場入りしたころには既にイベントは終盤に差しかかっており、ラストの曲が終わったのを見計らってニトロは
DJブースの方へ向かった。
「めちゃいい感じやったやーーん! ひこにゃーーん」
「あっ! 来てくれたんですねーー! しかし…… ひっ、ひこにゃんって……」
「今のってマジで人工知能が作曲した曲なん?」
「あぁ、そうだよ」
「あの…… ちょっと、ひこにゃんに聞きたいことあるんやけどさぁ……」
その翌日––
浩輝の自宅へ来たニトロ。
「ニトロさん、急にどうしたんですか? もしかして、オーディションの結果発表ですか?」
玄関口で問いかける浩輝に対し、
「なぁ、おじいちゃんの声が入ったモノって…… 何か一つでも残ってへん?」
「えっ、急にそんなモノ…… 一体どうするんですか?」
「いいからいいから! 後、おばあちゃん呼んでくれる?」
いつか渋谷の広場で見た、虎のような鋭い目つきに何かを察した浩輝は、
「わかりました! もしかすると、僕が小さい頃のビデオにじいちゃんの声が入ってるかもしれないです!
ちょっと探してみます! ばあちゃんも呼んできますね!」
そして祖母が玄関口までやってきた。
「あら、トロ吉ちゃんいらっしゃい。 どうしたの?」
「あの…… おばあちゃんの宝物…… ちょっとの間だけ俺に預けてもらってもいいかな?」
ニトロは人生の轍(わだち)が刻まれた顔を見つめながらいった。
その轍はこのあいだ見た姉のそれとはまた違った美しさがあった。
祖母は瞼(まぶた)から覗かせる漆い目を一瞬だけ細めたあと、
「わかったわ」
と一言だけ呟き、肌身離さずに持っていた写真を手渡した。
「ニトロさーーん! じいちゃんの声が少しだけ入ってるビデオ見つかりました!」
忙しない浩輝が玄関口にやってくると、
「ナイス! でかしたぞ! ほな、もう行くわ!」
といい、ニトロは即座に去っていった。
その翌日––
浩輝宅のインターホンが鳴った。
「はい」
「まいどーー!」
「ニトロさんですね。 今、鍵空けますので」
そして部屋へ上がり込んだニトロは、真っ先に祖母の和室へと向かった。
「おばあちゃーーん! これからプレゼントがあるから楽しみにしててや!」
「あら、トロ吉ちゃんこんばんわ。 ぷれぜんと? 一体なにかしら?」
「ニトロさん、お茶を入れますので、とりあえずコチラのテーブルへどうぞ」
「おっ、ヒロピー気が効くねぇ。 あれ? お姉ちゃんはまだお仕事かな?」
「そういえば、さっきLINEがきていて、電車が遅れているみたいで、もう少しかかるみたいです」
「あらそう。 なぁなぁ、お姉ちゃん…… 俺のことなんか言ってなかった?」
「え…… まぁ、ユニークな人とは言ってましたけど」
「他にもなんか言ってなかった? ほら、例えば〝ニトロさんのタトゥーを入れたい〟とかさぁ」
「いえ、他は特に……」
「あらそう」
台所でシンクへ滴り落ちる水の音がリビングまで聞こえた。
「今日はついにアレですか? オーディションの結果発表ですか?」
と言いながらお茶をニトロの前に置く。
「あっ、そういえばそんな話あったっけ? まぁそれも後ほどね。 しかし、遅いなぁ…… もう来るはずやね
んけどなぁ」
「誰か来られるんですか?」
「まぁな、ちょっと迎えに行ってくるわ!」
ニトロは忙しない様子で誰かを迎えに家を出た。
それから数分が経ち、テーブルのお茶の湯気がすっかり座った頃にインターホンが鳴ったので浩輝が応答する。
「はい」
「あっ、どうもニトロさんの知り合いの者で、三上と申しますが」
「はい! 少々お待ちください」
浩輝は玄関を開け、
「あの、おそらくさっきニトロさんが迎えに行かれたと思うんですけど、お会いしませんでしたか?」
「いえ、会わなかったですね。 入れ違いかな?」
「とりあえず、上がってください」
三上が自宅に上がり、手に持っていたアタッシュケースをリビングの床へ置いたと同時に、玄関の扉が開いた。
「ただいまーー! 久しぶりの我が家だわ」
「海外もいいが、やっぱり自分の家が一番だな」
「お土産は何買ってきてくれたの?」
浩輝の両親と姉が一緒に帰ってきた。
「仕事の帰りに、偶然、駅でお父さんとお母さんに鉢合わせしたのよ。 あら、浩輝そちらの方は?」
「この方は、ニトロさんのお知り合いの三上さん。 さっきまでニトロさんも居たんだけど、三上さんを迎えに
行ったっきり入れ違いになってしまって」
「どうも、お邪魔しています。 こういう者です」
といいながら姉に名刺を手渡す。
「これはどうもご丁寧に。 あら、3Dプリンタの会社を経営なさってるお方なのね」
三上が簡潔に自己紹介を終えると、和室から祖母が出てきた。
「あら、お帰りなさい」
「お袋、具合は大丈夫なのか? 急なお葬式だったもんで2日間も家を空けて悪かったな」
「気にしなくていいのよ。 体調なら少し良くなったから」
「そういえば、おばあちゃんこのあいだ、久しぶりにゲートボールやったのよ」
「お袋がゲートボールを?…… あのことがあって以来、ずっと辞めていたのにか?……」
父が目を見開いて驚いていると、三上がリビングの時計に目を配りながらいう。
「あの、あまり時間がありませんので、先にご説明だけさせていただきますね。 まず、お預かりしていたコチ
ラをお返しします」
持参したアタッシュケースの中から何かを取り出しテーブルの上に置いた。
それをみて浩輝が呟く。
「これは…… ニトロさんに預けたはずの、じいちゃんの写真とビデオ……」
「ニトロさんから丁重に扱うようにと指示を受けましたので、厳重なる取り扱いでお持ちしました」
続けてテーブルの上に何かを置いた。
「これは…… もしかして、おじい…ちゃん?」
家族一同がそう口を揃えると、
「これは先日、ニトロさんからお預かりした写真を参考に、3Dプリンタで製作したおじいさんのフィギュアで
す。 今はこうして亡くなられた方をフィギュアにするのが流行ってるんですよ」
祖母は置かれたフィギュアを不思議そうな表情で眺めながら、
「まぁ…… ほんと、おじいさんにそっくり」
三上はそれに続いてノートパソコンを取り出した。
「あと、このフィギュアにはちょっとした仕掛けがありまして、そのためにおじいさんに関するデータを少しプ
ログラミングしたいので、おばあさんにいくつか質問させていただいても宜しいですか?」
それから、祖母は自分が生涯を通して愛した伴侶のことを語り始めた。
馴れ初めから始まり、初デートのことや苦労話など、一つひとつの質問に溌剌(はつらつ)と答え、
その目は若返ったように眩く輝いている。
そして回答を入力しているブラインドタッチの音が止み、エンターキーを弾く音がリビングに鳴り響いたとき、
「それでは、おじいさんの手を握ってみてください」
いわれるがままに祖母が手を握ると、
朧月夜
作詞 高野辰之
作曲 岡野貞一
菜の花畠に 入日薄れ
見わたす山の端(は)霞ふかし
春風そよふく 空を見れば
夕月かかりて にほひ淡し
里わの火影(ほかげ)も森の色も
田中の小路をたどる人も
蛙(かはづ)のなくねもかねの音も
さながら霞める 朧月夜
「これは!?…… あの人の、唄声だわ!…… お人形から、おじいさんの唄声が聴こえる!」
「どうして、じいちゃんの唄声が!?」
驚いている祖母を余所に浩輝が問いかけた。
「これには〝CELP〟という技術と人工知能の機械学習が使われているんです」
「それは、具体的にはどういうことですか?」
「携帯電話の通話で聞こえる相手の声はそのままの相手の声ではないということはご存知でしたか?」
「いえ、全く知らなかったです!」
「あれは、CELPという技術で合成した音が流れているんです。 つまり、コードブックという音の辞書に数千
種類の音が登録されいて、その声の中から話し手の声の特徴に最も近い音が選ばれて聞こえているということで
す。 この技術を採用することにより、データ量を小さくすることができ急激な携帯電話の普及による通信回線
不足を防いでいるんです。」
「なるほど……」
「おおまかな流れとしてはまず、声の特徴を除いた音韻情報だけをデータに変換します。 これでデータ量を小
さくすることが可能ですが、それだけでは誰が話しているのか分からなくなるので、声の特徴や音の見本がつい
ているコードブックの中から話し手の声の特徴に最も近い音を選びます。そしてそのコードブックの番号と音韻
情報だけを電波に乗せて送り、それを受信した相手が音韻情報とコードブックの番号をもとに音声を合成して再
生するという感じです」
「ということは…… 僕が渡したビデオの中に入ったじいちゃんの声を頼りに…… 作成したということで
すか?」
「その通りです! そして先ほど、おばあさんに幾つか質問させていただいたのは、そのヒアリングしたデータ
を人工知能にプログラミングしておじいさんの感性を学習させるためだったんです。
質問した内容というのも、おじいさんと長年人生を共にした人でないと答えることのできない内容ばかりだっ
たと思います。
つまり…… これは、おじいさんの感性を学習した人工知能とビデオの声をCELPで変換したデータを繋ぎ合わ
せることによって再現した合成音で、歌を唄わせたモノということです」
「でも、どうしてわざわざこんなモノを?……」
「先日、ニトロさんから震災の被害に遭われたおばあさんのお話を聞いたんです。 僕は募金活動をしたり間接
的なボランティアには参加したんですが、直接なにか被災者の役に立つことはできないか? 力になれることは
ないか?とずっと考えていました。 そんなとき、ニトロさんがこのアイデアを出してくれたんです」
「へぇ、ニトロさんが……」
「人の想いの具現化を身近にすることで世の中をより良くすること。 それをモノづくりという分野で可能に
し、人々を幸せにすること。 これが僕の仕事です。 このフィギュアには、〝震災の被害に遭われた方に対し、
どんな些細なことでも一人ひとりが持っている資源を共有し合うことで、少しずつ、一歩ずつ前へ進んで下され
ば〟という想いが込められています。 僕はその想いをカタチにしただけです。」
家族全員の目頭は熱くなっている。
祖母は深々と頭を下げながら、
「本当にどうもありがとう……」
と囁(ささや)いた。
三上がアタッシュケースにノートパソコンを閉まっていると、玄関のドアが開いた。
「あれっ、ひこにゃんおるやん! なんや入れ違いかぁ」
「やぁ、ニトロさん! フィギュア、大急ぎでなんとか完成したよ! その説明も既にさせてもらったし、僕は
まだ仕事が残ってるので、今日はこれで失礼させてもらうよ」
と忙しない三上に父がいう。
「あの、キミは、まだ独身かね?」
「はい、そうですが」
「キミは誠実で志の高い素晴らしい青年だ! 是非とも、ウチの娘の婿にきてもらいたい」
「でも、父さん! 明日のお見合いはどうするんだよ?」
浩輝がいうと、
「相手側には申し訳ないが…… お断りさせてもらうよ。 おい、ちょっとそこまで三上くんをお送りしてきな
さい」
父の言葉に対して姉が、
「うん、わかったわ」
といいながら玄関に向かった。
そして家族に軽く会釈をしながら姉と玄関から出ようとする三上にニトロがいう。
「なぁ、ひこにゃん…… 俺の彼女も…… すりーでーぷりんたで作ってくれへんかなぁ?……」
「ニトロさん、申し訳ないけど、理念に背くような目的での製作は一切やらないんだよ」
「ちぇっ、これだもんなぁ」
三上と姉が家から出ると、ニトロは祖母に向かい口を開いた。
「おばあちゃんは、 そこのおじいちゃんが歌う曲の歌詞に出てくる〝菜の花〟の花言葉って知ってるかい?」
「いいえ……」
「〝小さなしあわせ〟っていう意味らしいで」
「ちいさなしあわせ?……」
「うん、そう。 四季のある日本では、春には必ず菜の花が咲くやろ?
その菜の花畑の風の香りやカエルの鳴く声、かすみがかった月、
こういった日本の美しさを五感で感じることで心が満たされるということ。
そして、季節の変化が小さなしあわせを運んでくれるということを、
きっとおじいちゃんはこの歌で伝えてくれてるんとちゃうかなぁ」
「トロ吉ちゃん…… ありがとうね……」
それから、浩輝の自宅ではニトロを交えた宴会が夜通し行われた。
そして翌朝––
「ニトロさーーん! 起きてくださいよーー! 今日は露店のお仕事なんでしょーー」
「もう…… ダルいダルい……」
「そんな、ダルいって…… ニトロさんがこの時間に起こしてくれって頼んだんじゃないですか! 祝日は稼ぎ
時なんでしょ! お仕事はちゃんと行かなきゃだめですよ」
「ちょっと…… 休むって電話して」
「電話って誰にするんですか? 会社勤めじゃないのに…… 一体どうしたんですか? 具合でも悪いんです
か?」
「うん…… 実は…… 昨日から、逆流性インフル目ばちこやねん」
「なんですかそれは! もう子供じゃないんだから、しっかりしてくださいよ!」
「なぁ、それよりもお姉ちゃん…… 俺のことなんか言ってなかった? 例えば、もし子供が生まれたときは
〝ニトロ〟という文字の中のどれか一つを付けたいとかさぁ」
「なーーんにも言ってませんでしたよ。 ニトロさんのニすら会話に出てこなかったです。 それよりも、今夜、
三上さんと食事するみたいでさっき美容室へ行きましたよ」
「あぁ…… 俺のデネブ…… ベガ…… アルタイルが…… また流れ星に……」
「流れ星? あと、ばあちゃんも〝おじいさんとデートに行ってくる〟と言って、朝早くからお洒落してフィ
ギュアを持って出掛けました」
「あらそう。 おばあちゃんは、ダーリンと朝からパーリーピーポーかぁ」
「それに父さんも、あのフィギュアをえらく気に入って、先日、亡くなった海外の知人のご家族にもプレゼント
するといって早速、注文してましたよ」
「それはええこっちゃ」
リビングのソファから起き上がったニトロは、気怠い足取りで台所へと歩いていき、冷蔵庫を物色したあとビー
ルを取り出しそれを口にした。
「 うんまーー! よっしゃ、ガソリン満タンなったし、ビジネスにでも行きますかーー!」
何食わぬ顔で他人の家のビールを勝手に流し込んだあと、テーブル横のギターケースを抱えて玄関口へと向かっ
た。
「あの、ニトロさん…… 例の件ですが……」
「え? なんの話?」
「オーディションの……」
「あぁ、それなぁ」
ニトロは玄関で靴を履きながらいう。
「残念ながらキミは不合格や…… というか、弟子とかチョーめんどくさいし、ウザいし、ダルいし」
「そうですか……」
「そういえば、浩輝って……」
「はい?」
「保険の仕事してるんやったっけ?」
「はい。 そうですが」
「〝保険〟っていう言葉の意味は知ってる?」
「勿論です! 保険とは、〝偶然的に発する事柄(保険事故)によって生じる経済上の不安に対処するため、あ
らかじめ多数の者が金額を出損し、そこから事故に遭遇した者に金銭を支払う制度〟のことです!」
「そうか……。 なら、その言葉を超えないとアカンなぁ」
「〝言葉を超える〟ですか?」
「言葉というのはなぁ、境界線なんや。 つまりその言葉が持つ意味以上でもないし以下でもない」
「は、はい!」
「しかし…… その言葉の境界線を越える唯一の手段が…… ひとつだけある……」
「それは…… なんでしょうか?」
「エモることや!」
「えっ、エモること?」
「俺は、言葉にメロディを乗せて歌ってる。 それは、言葉だけでは伝えきれないことや、伝わらないこと、伝
えられないことがあるからや」
「言葉だけでは伝えられないこと…… ですか……」
「理屈だけでは伝えられないことがあるから、俺は唄うしライムする」
浩輝は真剣な眼差しで話を聞いている。
「俺には音楽という心を乗せることができる器があって、そこに歌心という料理を乗せてお客さんに出している
だけや」
「なるほど」
「まぁ、俺の料理はお好み焼きやけどな。 以上。 ほなさいなら」
といい玄関のドアを少し開いたニトロは、
「あっ、それとコレ、お前にプレゼント」
といい、振り向きざまに浩輝の方へ何かを放り投げた。
「これは?…… 孫の手?……」
「お前の師匠は俺じゃなくて、コレや」
浩輝は渡された孫の手を凝視している。
「じゃあ、元気でな。 おかげで、また一曲新しいラブソングができたわ」
その日の夕方––
浩輝は住宅街のとあるマンションへ来ていた。
インターホンを押すと、
「はい」
「あっ、先日、一度面談させていただきました◯◯生命の武井と申します」
ドアから出てきたのは、浩輝の見込み客である主婦だった。
「あら、武井さんどうしたの?」
「あの、実は、このあいだコレを間違えて持ち帰ってしまいまして……」
といい、小学生用の音楽の教科書を手渡すと、
「コレ、ずっと探してたのよ! 明日、発表会なのに、あの子、練習ができなくてすごく困ってたの……」
「本当に申し訳ございませんでした」
浩輝が頭を下げていると、部屋の奥から女の子が出てきた。
「あぁ! コレあたしのだぁーー! おにいちゃんがもってたのぉ?」
「ゴメンね……」
「あたしね、がんばってれんしゅうして、あしたのはっぴょーかいでパパにきかせてあげたいんだぁ」
「そうだったんだね」
「パパはね、いつもおしごとがんばってくれてるからプレゼントしたいの」
浩輝はニトロを彷彿させる鋭い虎の目つきになり、主婦にいう。
「あの、 もしよろしければ…… 僕に協力させていただけませんか?」
「協力って?……」
「実は、僕…… 少しだけですが、ピアノが弾けるんです。 なので、娘さんに鍵盤ハーモニカを教えることが
可能です!」
「やったーー! おにいちゃんがおしえてくれるのーー?」
「それは、助かるわ! この子も喜んでることだし、お願いしようかしら。 では、上がってちょうだい」
「はい、お邪魔します」
渋谷の交差点––
ニトロは孫の手をマイクにしながらフリースタイルラップをしている。
すると、紺色の制服を着た地方公務員が声をかけてきた。
「ちょっと困るよ、君ぃ! まぁた、こんなとこで商売してぇ!」
「だから、これは商売とちゃうっちゅうねんっ! ゲリラプレゼントっ! ほら、お巡りさん、ちょっと背中向
いて!」
ニトロは手に持った孫の手で地方公務員の背中を掻いた。
「あぁ、もうちょっと右…… そこそこ…… あぁ気持ちいい……」
「いやぁ、しかし労働者は大変ですなぁ。 ワタクシのような流れ者には到底、務まりませんわ。 毎日、街の
平和を守ってくださりありがとうございますです」
「そうなんだよ。 街の平和を守るということは本当に大変なんだから…… 特に最近は、ハロウィンで街を
汚したり…… あっ……そこもうちょっと下ね……」
「おっ、ここが痒いということは、 相当疲れが溜まってますねぇ。 ポリスメンも楽じゃないですねぇ」
「もう本当に疲れるよ…… この間だって、交番に段ボールが落とし物として届けられてさぁ…… 中身を見
てみると孫の手が大量に入ってるんだもの……ってあれ?」
「ん? どうかしました?」
「どうかしましたじゃないよ! 早く片付けてよぉ! もぅ、頼むからね!」
といい、自転車に乗って去っていった。
地方公務員の制服の背中には孫の手が刺さったままだ。
それを見送った数分後に品物が完売した。
片付けを済ませたニトロは段ボールをちぎり、何かを書き、それを持ちながら交差点の沿道に立った。
すると、一台の車が止まり、ウインドウが空いた。
「お兄さん、それに書いてある〝一回乗せたらわかる!〟ってなに?」
「だから、そのままやないか! 俺を一回乗せたらわかる!」
「なんだか、すごい自信だなぁ…… 何処まで行きたいの?」
「任せるわ」
「え? 任せるの? まぁ、おもしろそうだから乗っていきなよ!」
「おおきにーー」
ニトロは車のシートに座ると、右ポケットから取り出したスキットルの蓋を開け、それを一口流し込んだ。
「やっぱ、スムージーもなかなかウマイなぁ」
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