父と母の手紙
(『奪われた若き命 戦犯刑死した学徒兵、木村久夫の一生』の著者によるコラムです)
2000年3月、私は38年間勤めた教職を停年退職した。スタートは1962年4月で、赴任校は福島県河沼郡柳津町立西山小・琵琶首分校だった。この地は本校の西山小学校のほか分校は本校から8km入った積雪2mの所にあった。4kmまでの集落(大成沢)までは道路に雪が残っていた。この雪道を私は、本校の先生に送られて分校に向かった。4月の29日(元天皇誕生日)に校庭の雪消ししたのを鮮明に覚えている。
この当時は人事の方針で、新任教師は僻地校勤務だった。しかしきびしい環境に様々な問題が発生して、新任教師は大規模校からになった。雪国会津で育った私ではあるが、私の赴任校については家族中が心配した。それは、父母、兄弟姉妹、義姉、義母が手紙をくれたことに表れている。次に取り上げるのが、父と母の手紙の一部分である。父は赴任して間もない4月14日付の手紙で助言を送ってくれた。
「赴任の路仲々大へんだった由で苦労である。へき地にては新任教師がゆけば大変親切にしてくれるものである。しかし暖かくなって忙しくなるとそうもしていられなくなる。その時こそ大切だ。お前がこの地の生活になれたいと努力する気持ちは大へん尊い。…略」
教職にあった父は、その都度的確な言葉で娘を励ます手紙をくれた。また「無医村では、まむしやけむし、その他毒を持つ動植物には気をつけねばならぬ」と注意を促している。
母の手紙は3枚からときには5枚にもなっているが、句読点なしで鉛筆で書かれている。それだけに紙面全体から母のおもいやりが感じられる。この地で2年目を迎えた12月17日付の母の手紙には次のように書かれている。
「本格的な雪が降りましたのでいよいよ根雪になったのかと思ひましたがまた消えまして近頃は大変あたたかくなりました。成沢までバスで行かれたとの事安心致しました-中略-専売は11日でした。煙草も思った様になりました姉さんと私の汗の結晶が現れたわけです」
私の家では義姉と母が農業をやり、たばこも作っていた。専売の日に高い等級をつけられた喜びを母は伝えてくれた。50年以上も前の手紙は両親の愛をひしひしと感じさせ、今の私に大きな力を与えてくれる。
■著者紹介
『奪われた若き命 戦犯刑死した学徒兵、木村久夫の一生』(山口紀美子・著)
1941年、日本は大東亜戦争(太平洋戦争)に突入する。日本では多くの国民が徴兵され、戦場に向かうことになった。そんな時代に行われた学徒出陣で徴兵された若者たちの中に、木村久夫という一人の青年がいた。
終戦後、戦地であったカーニコバル島の島民殺害事件に関わった人物として、木村久夫さんはイギリスの戦犯裁判にかけられ、死刑を言い渡された。その時木村さんが書いた遺書は、学徒兵の遺書をまとめた『きけわだつみのこえ』に収録されたことでよく知られている。
その『きけわだつみのこえ』を読み、木村久夫という個人に心惹かれた著者は、木村久夫さんの妹、孝子さんと何年も文通を重ね、木村さんのことをさらに深く知っていった。その後、孝子さん夫妻と実際に何度も会い取材を重ねていく中で、著者は木村久夫さんが歩んできた人生の足跡を辿っていくことになる。