戦争の記憶
(『奪われた若き命 戦犯刑死した学徒兵、木村久夫の一生』の著者によるコラムです)
私には子供の頃の戦争の記憶がいくつかある。今このことを振り返ると、年齢的にそのように感じた自分に驚かされる。
私は昭和15年2月25日、太平洋戦争がはじまる前年に生まれ、終戦の翌年昭和21年4月にに小学校に入学した。学校は奥会津の3年生までの分校だった。この分校で3年になった昭和23年秋のできごとを戦争の記憶として最初に記すことにする。
ある朝分校の体操場でいつものように朝会が行われた。教師は3人だけで、その中の分校主任と思われる先生が話しはじめた。口を開くとすぐ、「日本が戦争に勝っていれば、この人たちは神様だった」と言った。私はこのとき、刑を受けた人たちを神様あつかいしとことに強い不満をいだいた。このときの不快感が忘れられない。ずっとあとになってから本で知ったことであるが、昭和23年11月12日に、東条英機らA級戦犯7人に「東京裁判」で絞首刑の判決が下され、12月23日に刑が執行された。先生が話した時期が判決が下されたときか、刑が執行されたときかは分からないが、どちらにしても、私はこの先生の話に反発を覚えたことは、はっきりしているのである。
2つ目の記憶は、A級戦犯7人の刑が執行された翌年の昭和24年のできごとである。このとき私は小学校4年だったのであるが、当時は車はほとんど通っておらず、道路は夕方になるまで子供たちの遊び場だった。「陣取り」をしていたとき、きっかけは分からないが、私はふと遊びから抜けて道路わきの小川のそばに行った。そこには米とぎやなべ洗いなどをする洗い場があったのであるが、私はそこにしゃがみ込み、じっと水面を見つめながら、「朝鮮で戦争が起こるかもしれない」と、不安をいだいていた。そのときの光景を私は鮮明に思い出すことができる。不安は的中し、朝鮮戦争は翌年の25年に起こった。にぎやかな場から離れて、ひとり小川の流れを見つめながら朝鮮戦争についてこのようにとらえていた自分を、あらためて振り返ったことが何度もある。そのたび、小4という時期に自分はどうしてあのようなことができたのだろうと思う。そして、この2年間に強く励まされる。今当然のこととして戦争に反対する心を持ち、8月の原水禁止大会に向けての平和行進などにも参加する。その心が、このように早い時期からあったことに驚き、あらたな力をも与えられるのである。
■著者紹介
『奪われた若き命 戦犯刑死した学徒兵、木村久夫の一生』(山口紀美子・著)
1941年、日本は大東亜戦争(太平洋戦争)に突入する。日本では多くの国民が徴兵され、戦場に向かうことになった。そんな時代に行われた学徒出陣で徴兵された若者たちの中に、木村久夫という一人の青年がいた。
終戦後、戦地であったカーニコバル島の島民殺害事件に関わった人物として、木村久夫さんはイギリスの戦犯裁判にかけられ、死刑を言い渡された。その時木村さんが書いた遺書は、学徒兵の遺書をまとめた『きけわだつみのこえ』に収録されたことでよく知られている。
その『きけわだつみのこえ』を読み、木村久夫という個人に心惹かれた著者は、木村久夫さんの妹、孝子さんと何年も文通を重ね、木村さんのことをさらに深く知っていった。その後、孝子さん夫妻と実際に何度も会い取材を重ねていく中で、著者は木村久夫さんが歩んできた人生の足跡を辿っていくことになる。