自著『奪われた若き命・戦犯学徒兵、木村久夫の一生のこと』 (2)
(『奪われた若き命 戦犯刑死した学徒兵、木村久夫の一生』の著者によるコラムです)
本書出版後、私は一人の方の投稿文(中外日報 昭和48年8月25日掲載)を目にした。そこにあった記述に私は驚き、衝撃をうけた。投稿文の見出しは「私が最後の面会人」で、投稿された方はシンガポールのチャンギー刑務所で教誨師をされた松浦覚了さんで、木村久夫さんが処刑される朝のことが、くわしく書かれていたからである。覚了さんについて述べる前に、部分的になるが投稿文を紹介したい。
「木村君は、大阪府下吹田の出身で、忘れもしない昭和21年5月23日午前8時に刑死されました。その日の7時に木村君の部屋へ出かけました ―略― 部屋に入ると、コンクリートの土間の粗末な寝台には、白紙にのせられた朝食のビスケットのいくつかと、水に入った水筒がありました。」
処刑の日の朝の様子が、木村さんを見送られた、教誨師松浦覚了さんによって書かれた描写は、私の目をくぎつけにした。何もできないまま、処刑の朝の木村さんが立つ部屋を想像する中で時間が流れた。
私は『きけわだつみのこえ』を聞いた。そして、心に刻まれている部分を読み返した。「こうして静かに死を待っていると故郷の懐かしい景色が次から次へと浮かんで来ます。分家の桃畑から佐井寺の村を見下ろした、あの幼な時代の景色は、今もありありと浮かんできます。」「今では父母や妹の写真もないので、毎朝毎夕眼を閉じて、昔の顔を思い浮かべては挨拶している。あなたたちもどうか眼を閉じて私の婆に挨拶して下さい。」
この部分を胸に、「白紙に朝食のビスケットがある」場面を思い浮かべ、つらさにたえていた。覚了さんは最後に、木村さんが告げた言葉と、歌を取り上げられた。言葉は「学者で身を立ててゆこうと思っていたのに、著書もなく死ぬのは残念でなりません」であり、歌は3首で、ここでは一首のみ紹介する。「朝がゆをすすりつつ思ふ故郷の父よ許せよ母よなげくな。」木村さんの両親への気持ちが一文字一文字から伝わってくる。
文集は『子や孫に伝える記・戦争体験と平和への想い』で、出版された方は兵庫県損保群太子町・了源寺前住職松浦暁了さん。投稿された松浦覚了さんは「暁了さんの文」だったのである。『印度洋殉難録』の教誨師面談録・松浦覚了と、文集奥付の松浦暁了のお名前を何度も見つめながら、奇跡的に得られた奇遇に、感謝の気持ちでいっぱいになっていた。文集を送ってくださった松浦暁了さんにお礼を申し上げたい。
■著者紹介
『奪われた若き命 戦犯刑死した学徒兵、木村久夫の一生』(山口紀美子・著)
1941年、日本は大東亜戦争(太平洋戦争)に突入する。日本では多くの国民が徴兵され、戦場に向かうことになった。そんな時代に行われた学徒出陣で徴兵された若者たちの中に、木村久夫という一人の青年がいた。
終戦後、戦地であったカーニコバル島の島民殺害事件に関わった人物として、木村久夫さんはイギリスの戦犯裁判にかけられ、死刑を言い渡された。その時木村さんが書いた遺書は、学徒兵の遺書をまとめた『きけわだつみのこえ』に収録されたことでよく知られている。
その『きけわだつみのこえ』を読み、木村久夫という個人に心惹かれた著者は、木村久夫さんの妹、孝子さんと何年も文通を重ね、木村さんのことをさらに深く知っていった。その後、孝子さん夫妻と実際に何度も会い取材を重ねていく中で、著者は木村久夫さんが歩んできた人生の足跡を辿っていくことになる。