「私も書こう」
  天野節子が思い立ったのは、還暦を数年後に控えた頃のことだった。 
  幼児教育に関わって40年、現在は知育教材の開発者として活躍 する。無類の本好きで、読破した推理小説は1000作を超える。通勤電車でつり革につかまりながら、あるいは自宅のベッドで寝転びなが ら、自分の時間はいつも本とともに過ごした。本は仕事中心の生活を支える重要なアイテムだった。
  今度は読み手から、書き手になってみる?
  初めて浮かんだ自問は、やはり人生の大きな節目が近づいていたからだった。
「自分が生きてきた60年近くを振り返ってみると、3つの時代があることに気がつきました。学校を卒業するまでの20年、 幼稚園の教諭としての20年、そして幼児教育に携わって20年。それぞれの時代に自分のやりたいことをしてきましたけれど、それでも自分の住んでいた世界はあまりにも狭かった。そこで何かひとつ、今までに経験しなかった世界を経験したいなと。それが、書くということでした」

天野節子氏

日常を離れるなら、書くのは自伝ではない。小説、それも推理小説。
アガサ・クリスティの『アクロイド殺人事件』と松本清張の『眼の壁』。好きな本はと問われれば、迷うことなくそのふたつを挙げる。人間が人間を描くことの醍醐味を感じさせる推理小説が好きだった。
  自分が目指すものも、できれば幸せいっぱいの小説ではなく、人間の持つ“弱さ”や“脆さ”を描くものでありたい。事件を起こさざるを得なかった人間の、その動機を描ききりたい。作品の方向を定めると、完成予定を60歳の誕生日と決めた。その'06年3月3日まで、持ち時間は4年……。
夜と休日はPCの前に座る生活が始まった。脱稿まで、入力した原稿は400字の原稿用紙にして1万枚を超える。
  ひとり暗中模索するなか、『氷の華』のプロットは生まれていった。
  主人公は知的で華やかでプライドが高く、何不自由ない生活を送る瀬野恭子。彼女はある瞬間をきっかけに心を凍てつかせ、殺意を孕んでしまう。そして完全犯罪へ。トリックを解き明かそうと追う戸田刑事との攻防。
「書いちゃ消し、書いちゃ消し。本当に書くのは初めてだったので、要領が分からず時間がかかりました。でも楽しかった。楽しい孤独という感じですね。実は私、小説のなかで恭子に言いたいことを言わせています。まるで暴言とも思える台詞も書いて。でも人間、日常生活のなかでは、言いたいことの半分も言えないのが現実でしょう。私のなかにも芥のように溜まったものを、恭子と戸田を通して表に出していたような気がします」
  半年間、“筆”がまったく進まず苦しんだ時期もあったが、それでも書くことに没頭するのは、この上なく贅沢な時間だった。
「孤独ではありましたけれども、産みの苦しみだけでは続けられなかった。自分を褒めたいような楽しみがあったから、最後まで書けたのだと思います」
  そして脱稿。とうとう書き上げたという達成感のなか、湧き上がる思いがあった。
「この小説を、本にしたい」
  作品を形にして世に伝えたいと願うのは、書き手の心情として当然のなりゆきだった。その方法として、天野節子がまず選んだのは文学賞への応募。ところが入選は果たせなかった。栄冠のかわりに届いたのは、さんざんな酷評で……。
  いくつかの論評のなかに「殺人の動機が弱い」というものがあった。実は、その動機こそ、著者がこの小説でいちばんに言いたかったことなのだが……。主人公が動機を最後まで語らないという新しい作法が、審査員団には見抜けなかったらしい。
  天野節子は、この一件で腹を据えた。
「もっと若ければ柔軟性もあり、評価を受け入れて自分のものにできると思うんですけれど、やはり年齢的に無理なんじゃないかなと思いました。ならばいっそ自分に正直に、評価されなければそれもよしと考え直したのです」
  そうして選んだのが、ある自費出版の会社への持ち込みだった。
  出版費用は、自己満足を本という形にしてくれることの対価だと割り切った。これで還暦の誕生日に間に合うのなら、決して高い買い物ではない。
  天野節子は決断し、出版社との打ち合わせを重ねた。ところが、『氷の華』にいよいよ刊行の見通しがたった矢先、思いもよらない事態が勃発してしまう。
「会社が倒産しました」
  出版社からの耳を疑うような連絡だった。
  私は騙されていたのかという思いが募ったが、何より忍びなかったのは、自分が命を削るようにして書いた原稿を埋もれさせてしまうことだった。
  とにかく原稿だけは戻してほしいと、祈る日々が続いた。賞の落選、そして出版社の倒産。あまりにも酷な試練が続いた。

  しかしそんな紆余曲折を経たからこそ、3度目の出会いである幻冬舎ルネッサンスへと、バトンは手渡されていくことになる。
  頓挫から一転、刊行へと橋渡しの役を果たしたのは、当初からの編集者・神崎東吉。会社が倒産した後、すぐに幻冬舎ルネッサンスに入社、編集局長に就いていた。
  その神崎が言う。
「『氷の華』が埋もれてしまうことに、その作品の出来栄えからしてもったいなさを感じ、幻冬舎ルネッサンスで出版することに、私が注力したことは事実です。誠実にやっていれば山は動く、率直にそう思います」
  幻冬舎ルネッサンスでは、自費出版を“個人出版”と呼ぶ。著者の自費をもって本を刊行する仕組みは他社と変わりないが、“幻冬舎”の現役編集者らが、直接に本づくりのアドバイスをするのが“個人出版”たる所以だ。目指すのは、クオリティの面で商業出版になんら遜色のない自費出版。『氷の華』もまた、幻冬舎ルネッサンスの編集者によって原稿が見直され、最高の装丁が施されて、'06年9月、1000部が各地の書店に搬入された。
  自著が書棚に並ぶ書店で、天野節子はしばし至福の時間を過ごしたという。
「カバーデザインも最高に気に入りましたし、本当に素敵に仕上げていただいて、感無量でした。書店に置かれた自分の本の近くで、しばらく立っていましたよ。そのときは売れませんでしたけれど」
  しかし、本人の知らないところでは、確実に売れていたのである。
  発売から1ヶ月もすると、書店で購入して読んだという映像関係者から、電話での問い合わせが相次いだ。
「ドラマ化させていただけませんか?」
「映像化はもう決まっているのでしょうか?」
  幻冬舎ルネッサンスの創立以来、これほど速い反響が返ってきたことはなかった。社内の士気がぐんと上がった。
  その社内に、『氷の華』を手にしきりに唸る男がいた。半年前からルネッサンスの社長を務める小玉圭太だ。
「ここまでクオリティの高い作品が、うちから出ていたとは」
  幻冬舎の創立メンバーのひとりでもある小玉が惹かれたのは、まず簡潔な筆致だ。また物語展開、エンターテインメント性、いずれの面でも群を抜いている。
「この時期にこの作品に巡り会えた自分は、なんて幸運なんだ」
  血が騒ぐ思いがした。とにかく多方面から、いろいろな意見が聞きたい思いに駆られた。同業者、映像関係者、職種によらず本の目利きの知人たち。せっせと送りつけたが、誰からも「処女作とは思えない」「素晴らしい」といった答えが返ってくる。
  そこで、小玉は幻冬舎の営業部に持ち込んで言った。
「これを読んでみてくれないか」
  書店営業の第一線を歩く、若い社員らの反応も知りたかったのだ。
  営業第一部の須江知子は、そもそも幻冬舎が自費出版に乗り出したことに懐疑的だったが……。 
「私は正直言って自費出版に対して偏見を持っていました。しかし、この『氷の華』は1行目から引き込まれ、こんなすごい表現者がまだいるんだと驚きました。うちのグループで自費出版の会社を立ち上げたことに、いまさらながら合点がいくほど、力のある作品でした」
  営業第二部の阿部江里も、一転して絶賛に回ったひとりだ。
「いくら小玉が“いい”と言っても半信半疑のところがあったんですが、実際に読んでみると“一気読み”とはこのことかと思うほど。ちょうど近県への出張があって持っていったのですが、移動中ずっと読んでいました。一作目でこんなものが書けてしまうのかというほど無駄がない。文章的なうまさはズバ抜けていましたね」
  営業課長代理の市川真正は「かなり面白い」と感想を抱いたものの、作家の知名度に不安を抱いていた。
「まったく名前が浸透していない作家の本を印象づけるのに、どうやって書店に展開したらいいのかと考えると、ちょっと難しいのかなというのはありました。そこで、書店さんに本を読んでもらうことにしたんです」
  しばらくして書店員から送られてきたメールには、こんな1行が記されていた。
〜面白かったです、土曜ワイド劇場みたいに〜
  推理小説は映像化したときのキャスティングを想像しながら読む、という市川にはこのメールが最大の賛辞にも思えた。
  営業部員の間を駆け巡った評判は、やがて幻冬舎社長の見城徹の耳にも入り、さっそく幻冬舎編集部の君和田麻子が呼ばれた。
「とてもプロットがしっかりした、いい小説だと思いました。いくつかの点を直せば相当の作品になると確信を持ちました」
  幻冬舎ルネッサンスから幻冬舎へ、劇的な決断が下されていた。かくして'07年3月、『氷の華』は、新たな形で店頭に並ぶことになった。
  あの失意の誕生日から1年が経っていた。いま、カバーデザインも一新された自著を手にしながら、天野節子は改めて感無量の面持ちだ。
「君和田さんともう一度、徹底的な原稿の直しをやりました。こんなにもきちんと読んでいただいて本当に感謝しています。“幻冬舎ルネッサンス”そして幻冬舎、思いがけず生まれ変わることができたこの本は、本当に幸せ者だと思います」
 原稿に惚れ込み心血を注いだのは君和田だけではない、数多くの読み手の感動が『氷の華』を上へ上へと押し上げた結果だった。
氷の華 幻冬舎ルネッサンス刊 氷の華 幻冬舎刊

幻冬舎ルネッサンス刊

定価:1,260円
ISBN4-7790-0072-6
2006年9月刊行

幻冬舎刊

定価:1,680円
ISBN978-4-344-1301-8
2007年3月刊行

それだけに値する著者の力量が、そして作品の生命力が光っていた。もしかすると今後も、映像化など新しい展開が拓かれるかもしれない。また数年後には、幻冬舎文庫として書店の棚に置かれ、末永く残っていくことになるだろう。
もしミリオンセラーになったら、プロ作家への転向も考えますか? 
そう訊くと、天野節子の張りのある声が返ってきた。
「いいえ、また書いてお金を貯めて、幻冬舎ルネッサンスに出していただきます。私にとって書くことは夢。自由を楽しめる“個人出版”がいいわ」
  本を書いて人生は変わったけれど、自分は変わらない……。そう告げるかのように、文壇に躍り出た“団塊”のニューヒロインは微笑んだ。
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