文芸賞で酷評、販売直前に出版社が倒産。3度目の正直、自費出版で開花した60代の作家『天野節子』の誕生秘話(1)
1月26日に、幻冬舎からミステリー小説『午後二時の証言者たち』を出版した天野節子さん。2006年に同じくミステリー小説『氷の華』で自費出版デビューするや否や、すぐさま幻冬舎文庫化が決定。米倉涼子主演でドラマ化、35万部を越える大ベストセラーを達成し、一躍時の人となりました。
その後も商業出版で続々と人気作品を生み出し、今年で作家デビュー10年目を迎える天野さんですが、『氷の華』を出版した当時は働きながら4年がかりで執筆するなど、決して順調に進んできた訳ではありません。
今回は、そんな天野節子さんのデビューまでの軌跡を辿ります。
(取材・文:小林ゆうこ)
自分の住んでいた世界はあまりにも狭かった
「私も書こう」
天野節子が思い立ったのは、還暦を数年後に控えた頃のことだった。
幼児教育に関わって40年、現在は知育教材の開発者として活躍する。
無類の本好きで、読破した推理小説は1000作を超える。通勤電車でつり革につかまりながら、あるいは自宅のベッドで寝転びなが ら、自分の時間はいつも本とともに過ごした。
本は仕事中心の生活を支える重要なアイテムだった。
今度は読み手から、書き手になってみる?
初めて浮かんだ自問は、やはり人生の大きな節目が近づいていたからだった。
「自分が生きてきた60年近くを振り返ってみると、3つの時代があることに気がつきました。学校を卒業するまでの20年、 幼稚園の教諭としての20年、そして幼児教育に携わって20年。
それぞれの時代に自分のやりたいことをしてきましたけれど、それでも自分の住んでいた世界はあまりにも狭かった。そこで何かひとつ、今までに経験しなかった世界を経験したいなと。それが、書くということでした」
完成までの持ち時間は4年。60歳の誕生日までに
天野節子氏 日常を離れるなら、書くのは自伝ではない。小説、それも推理小説。
アガサ・クリスティの『アクロイド殺人事件』と松本清張の『眼の壁』。好きな本はと問われれば、迷うことなくそのふたつを挙げる。人間が人間を描くことの醍醐味を感じさせる推理小説が好きだった。
自分が目指すものも、できれば幸せいっぱいの小説ではなく、人間の持つ“弱さ”や“脆さ”を描くものでありたい。事件を起こさざるを得なかった人間の、その動機を描ききりたい。
作品の方向を定めると、完成予定を60歳の誕生日と決めた。その'06年3月3日まで、持ち時間は4年……。
夜と休日はPCの前に座る生活が始まった。脱稿まで、入力した原稿は400字の原稿用紙にして1万枚を超える。
書くことに没頭するのは、この上なく贅沢な時間だった
ひとり暗中模索するなか、『氷の華』のプロットは生まれていった。
主人公は知的で華やかでプライドが高く、何不自由ない生活を送る瀬野恭子。彼女はある瞬間をきっかけに心を凍てつかせ、殺意を孕んでしまう。そして完全犯罪へ。トリックを解き明かそうと追う戸田刑事との攻防。
「書いちゃ消し、書いちゃ消し。本当に書くのは初めてだったので、要領が分からず時間がかかりました。でも楽しかった。楽しい孤独という感じですね。
実は私、小説のなかで恭子に言いたいことを言わせています。まるで暴言とも思える台詞も書いて。
でも人間、日常生活のなかでは、言いたいことの半分も言えないのが現実でしょう。私のなかにも芥のように溜まったものを、恭子と戸田を通して表に出していたような気がします」
半年間、“筆”がまったく進まず苦しんだ時期もあったが、それでも書くことに没頭するのは、この上なく贅沢な時間だった。
「孤独ではありましたけれども、産みの苦しみだけでは続けられなかった。自分を褒めたいような楽しみがあったから、最後まで書けたのだと思います」
そして脱稿。とうとう書き上げたという達成感のなか、湧き上がる思いがあった。
この歳で酷評は受け入れられない。ならいっそ、自分に正直に・・・
「この小説を、本にしたい」
作品を形にして世に伝えたいと願うのは、書き手の心情として当然のなりゆきだった。その方法として、天野節子がまず選んだのは文学賞への応募。
ところが入選は果たせなかった。
栄冠のかわりに届いたのは、さんざんな酷評で……。
いくつかの論評のなかに「殺人の動機が弱い」というものがあった。
実は、その動機こそ、著者がこの小説でいちばんに言いたかったことなのだが……。主人公が動機を最後まで語らないという新しい作法が、審査員団には見抜けなかったらしい。
天野節子は、この一件で腹を据えた。
「もっと若ければ柔軟性もあり、評価を受け入れて自分のものにできると思うんですけれど、やはり年齢的に無理なんじゃないかなと思いました。ならばいっそ自分に正直に、評価されなければそれもよしと考え直したのです」
「会社が倒産しました」
そうして選んだのが、ある自費出版の会社への持ち込みだった。
出版費用は、自己満足を本という形にしてくれることの対価だと割り切った。これで還暦の誕生日に間に合うのなら、決して高い買い物ではない。
天野節子は決断し、出版社との打ち合わせを重ねた。ところが、『氷の華』にいよいよ刊行の見通しがたった矢先、思いもよらない事態が勃発してしまう。
「会社が倒産しました」
出版社からの耳を疑うような連絡だった。
私は騙されていたのかという思いが募ったが、何より忍びなかったのは、自分が命を削るようにして書いた原稿を埋もれさせてしまうことだった。
とにかく原稿だけは戻してほしいと、祈る日々が続いた。
賞の落選、そして出版社の倒産。
あまりにも酷な試練が続いた――
>> 次回へ続きます。