表現者の肖像 嵯峨野嘉竹
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はじめに

 「古の都」「雅・粋の極み」「歴史創生の表舞台」「近代宗教礎の地」そして、「過去と現代が共存して生きる街」etc、として多くの観光客を魅了し誘う、日本最大の観光地。奈良と京都。

 海外から大勢の方々が訪れる日本の観光の象徴である両都は、中学生が日本誕生の歴史観賞することを目的とする修学旅行という形で教育の一環として継続されてきた経緯があります。

 しかし、現在では修学旅行も様相を変え、両都を選ぶ生徒も減り、机上で学んだ日本の歴史知識を深める機会が失われつつあります。

 そして、衆人の中でも「奈良にあるものやら、京都にあるものやら」要領を得ない方もお見受けすることがあります。

 世界中の方々が見に来られる両都を、そこに住む我々日本人が「見たことがない、あまり知らない」というのは実に勿体ないことだと思うのです。

 興味が湧かないのは致し方なくとも、何処か旅行を検討している状況であれば、是非、両都を旅なさって下さい。必ず感動を味わえると思います。

 奈良、京都、どちらも現在の街並みから目を少し転じただけで、そこには過去が厳然として息衝いているのですから。街の彼方此方にタイムカプセルが鏤(ちりば)められているように思えて、心浮き立つ感じがしますし、何と云っても街そのものがテーマパークなのですから時間を忘れて溶け込んでしまうでしょう。

 ですから、ご帰宅後には、ご家族ご友人に思いの丈の感想をお話になって下さい。

 両都を訪ねて下さる方が、更に増えると思うのです。

何故、奈良・京都へ

 私が、この大切な古都のご紹介ご案内をさせて戴きたいと願った要因は、自分探しの旅が始まりです。私の祖先といわれる平家の武士が、落ち武者として辿らなければならなかった道のりを考察し、そのご苦労と、何を求め生きられたのかを尋ねることが、私にできる唯一無二のご供養になるのではないかとの愚考からです。皆様ご存知の通り、源平合戦の舞台は平安遷都の京都です。

不遜と思われるかも知れませんが、古都で繰り広げられた庶民の与り知らぬ皇族・氏族・公家・武者の争いであり、度重なる「都の造営」や、聖武天皇の詔による「東大寺大仏建立」の国民総出による国家的プロジェクトの参画という柵に、知らぬうちに巻き込まれ、翻弄されました。そして、直接的であれ間接的であれ(大仏建立に限らず、幾多の場面にもその影響は受ける事になります)、その枢機であったか数奇散々であったのかは別にしても、その時代時代の歴史の渦中に身を置かなければなりませんでした。そのような状況下での暮らし振りや、夫々のご先祖様のご心中・思想・功績に想いを巡らされ、お偲びになられることも、古がより身近に感じられることでしょう。両都を旅されたい気分は弥が上にも高揚してこられることと存じます。

 その折には、是非、人生の途中に一息を入れるつもりでお出掛けになって、現在と古が風の表と裏側で見え隠れする風情を堪能なさって下さい。そのようなことでも、肩の力の抜けた目で未来を展望されるきっかけにもなるのではないかと思うのですが。

 過言な申しようはご容赦下さい、

 私事に戻らせて戴きますが、当然、現状から過去の両都を見知ることは不可能です。しかし、現存の史物から手懸りが得られるのではないかと思えたのです。

 そして、思考錯誤を繰り返し煩悶し、糸口の見えない手探りの自分探しをする徒然に、過去と現代が同居して生きる町を訪ね歩くうち、何時しか初志を凌駕し、日本そのものを知りたい欲求が頸を擡(もた)げてきたのです。

 京都を訪ねることで、平城京・藤原京・飛鳥宮という嘗ての都を生み育んだ奈良に思いが馳せる様になりました。

 それが、私が奈良と京都を旅したい理由なのです。自分本位な発想ですが。是非、本書をご高覧戴き、皆様に奈良・京都を訪ねて戴きたいのです。

 そのお願いをした上で、再びご不遜に思われてしまうお尋ねをしたいのです。「あなたは自国のことをご存じですか」。海外旅行が持て囃される風潮に疑問と老婆心を抱くことから、皆様にお問い掛けをさせて戴きたいのです。

奈良・京都を学び継ぐ

 あなたは外国の方々に、日本が誇る両都の説明を求められた時、正しくお教えできますか。

 私は、外国の諸事情に詳しいより、自国を堂々と明らかにご案内できる方が尊いのではないかと感じるのです。

 その一方で、奈良・京都を訪ねる方々はどの様に両観光地を知り、訪れることを選択するのかを私なりに考察し、更に多くの方に来訪して戴けることを念じ、ご提案をさせて戴きたいと思います。

 そして、この後、両古都への旅をご検討中の方々には、必ずお役に立てるとの自負から、本書をご高覧戴けることを熱望致します。

 また、京都・奈良を良くご存じではない方や、もっとお知りになりたい方々へのご助力とアドバイスになればとの願いから、釈迦に説法とならぬ様心し、両都の辿った変遷の再考を通して、観光と並行した楽しく有意義な旅想を創案して戴けるご提示をしたいと存じます。

 したがって、多くの旅行案内書とは違った観点から、実際にお役に立てる情報を主体として書き入れたつもりですので、是非、末永くお手元に置かれまして、折に触れご高覧して戴けたなら幸いに存じます。

 尚、本書に整然性を持たせる為に付け加えさせて戴きますが、深く歴史を遡ると、神話の教典と史実との区別が難しい状態に陥ってしまいますので、歴史書を基に、西暦五百年以後を基本として記述させて戴きます。

奈良・京都を訪ねる理由とは

 京都・奈良を旅行される方の場合、暫く前の世代であれば、ふとした瞬間の修学旅行を回想した状況から発起されることが多い様に思いますし、更には、その後、時間を置いて個人的に、「じっくり」、そして、「ゆっくり」街の雰囲気に浸りたいという、再訪願望に揺り動かされて訪れる方も少なくないでしょう。

 また、旅行地を決め兼ねている場合にも情報量と観光名所の豊富さ、そして、仄かな旅愁を擽る風情や古へ誘う歴史を育んだ憧憬の地であり、加えて、ひと時でも気品と雅に触れることのできる希少な地であることが訪問地に選ばれる理由になるのではないでしょうか。

 違ったケースでは、人伝えに思い入れの籠った情報から、ご自身のイマジネーションを膨らませ、決断される方も多いのではないでしょうか。

 或いは、お目当てを訪ねる傍ら、または、所要で来られて他の観光名所も立ち寄りたいという、補充的な選択肢もあるようです。

 何れにしても、それだけ人々を捉えて離さない魅力が、京都・奈良という土地にはあるのです

京都・奈良に親しむ

 一度は行ってみたい憧れの有名観光地という視点から、初めて訪れる方や不案内な方の中には、有名寺社仏閣巡りをメインにした、「主要観光コース巡りツアー」を利用される方も多く、ゆとりを持ったタイムスケジュールでの移動であり、入場・拝観券の購入手続き不要(旅行会社にて手配済み)による時間の短縮ともなり、セット内容によっては、普段では拝観出来ない、目にする事が出来ない文化財を見る事が出来る特典が付いている場合もありますので、お得で安心した観光を楽しむこともできるでしょう。

 また、一日コースや食事付きコースには有名料亭での昼食がセッティングされている場合も多く、楽しみも倍加するものと思います。

 そういった観点から、初めは、こういう企画観光参加による旅行をされることを、お勧めしたいと考えます。

 その後、再訪ならびに、複数回の来訪を望まれる方へ、私なりのアドバイスを差し上げたいと思いますので、ご参考になさって戴ければ幸いに存じます。

京都・奈良を考える

 奈良・京都、言うまでもなく、その歴史的変遷の中で国家構築の礎を担ってきた地です。そして、歴史創生期を如実に語り記憶される過半をこの両都で占めているのです。

 それは、紛れも無く日本と云う国を創り上げてきた地であるという周知の事実であります。しかし、奈良と京都では、その政治的背景や繋がる文化の相違によって、趣は全く異なるものになっているのです。ですから、観光目的も微妙に違ってくると思います。

 私事ですが、少し前に、「京都・奈良へ旅行する」という表現をされる方が多いのは何故かという素朴な疑問が浮かび、私なりに考え、「京都と」それこそが、両古都に都が置かれたにも関わらず、古人が京都を訪ねる事を「京に上る」「都へ行く」と表現しました。

 一般的にも、京都の遷都期が長く、その時期に歴史的に重要な変遷が展開され、日本の都として広く認知された様です。

 それに因り、現代に至っても、人々には都として慈しまれ、日本の象徴として認められており、奈良を軽んじることなく、「京都を」受け入れられているのだと感じました。

 しかし、そういった事情を踏まえた上で、敢えて、奈良が遷都発生の地である事に敬意を表し、表記する際、「奈良と京都へ」と記載したく、次項以降にご紹介する事柄をご賢察の上、ご高察を以てご続読戴けます様お願い致します。

日本建国の礎、奈良を考える

 それまでの日本社会の世情と云えば、各地に点在する豪族を中心とした多くの農民・下人・賤民を抱える集団を指します。豪族は農民の収穫物を徴収(年貢として納めさせる)し、それ以外の者達には様々な下働きをさせます。その中には後の武士に繋がる自警団を擁しており、その見返りとして、その者達を庇護するという図式で信頼関係ならびに力関係を維持していました。

 しかし、統治する豪族の長や有力者の裁量・力量に因っては、領内の支持を得られず謀反に遭う事もあり、当然の成り行きとして、隣接する豪族間との利権争いや略奪と云った軋轢に端を発する紛争は、日常茶飯事に繰り広げられておりました。

 抑々、天皇系譜誕生の地であるとともに、卑弥呼率いる日本初の国、「邪馬台国」建国伝説は、ここ奈良とする説が有力視されており、大和朝廷誕生の礎を築いたと云われております。

 更に、奈良は、豪族間の勢力争いを平定し、天皇主権政治による国家の安定統治を推進し、仏教普及により、国民を精神的苦悩から解き放し・心穏やかな生活を確保する政策(聖武天皇勅願による、東大寺の大仏造立に代表される)を推進しました。

古墳ブーム到来と戦

 卑弥呼以来、三世紀以降に代表される時代の皇族や豪族は、広大な土地に巨大な墳墓(卑弥呼死亡期と古墳時代到来期が同時期『二世紀後半王位に就き、祈祷師・呪術師的宗教で内乱を鎮め、二三九年に魏国より親魏倭王の称号を受け三世紀中頃没した。)を挙って建造し、その権力を鼓舞しました。そして、それに呼応するかのように天皇継承に関わる争いも無くなることはなかったようです。

 疑心暗鬼の時代到来です。農民や平民は日々の生活に追われる中で、皇族・貴族たちは諍いの影に付き纏われることになります。

 親族にさえ心許せずに、一度昂った精神を平常心に立ち戻らせるのは至難の業となります。それは、一兵卒に至るまで伝心し、平静を齎せずに、新たな脅威への対策を余儀なくされるのです。

 それとともに、何の罪科もない農民や平民に延々と戦の犠牲を強いて爪痕を残し続けることになるのです。

 この戦は、幾つもの時代を跨ぎ、天皇継承争いから武家社会の天下取り抗争へと様相を変え、江戸時代を迎えるまでの永い年月に亘り、庶民に犠牲を強いて続けられることになりました。

シルクロード終着地

 ローマを起点とするシルクロード東方終着地が日本と云われており、様々な文化や物品が一筋の道によって流通され、国々からの情報を得る一方で、我が国からも発信しました。

 その齎す影響は多岐に亘り、我が国に多くの財産として形を残します。中でも、仏教伝来による政治と仏教の融合。人々の生活や習慣を豊かにし、現代に至るまで影響を与え続けています。

渡来文化の影響

 それまでも幾度となく、朝鮮半島や中国からの渡来人(帰化人)が亡命や技術を伝える為に渡来し、日本の発展に寄与されていましたが、六三〇年に、中国の唐時代初となる外交使節団として犬上御田鍬に同行する一二〇人(後に五~六〇〇人)余りの遣唐使を渡海させ、以後、二六四年に亘って一五回渡航を試みました。しかし、多くの難破遭難と困難を(これは、渡航時期に問題があって、唐の正月を祝う儀式に参賀する為、七か月前の六月に出航しなければならなかったのです。それは台風到来時期に当るのです。)極め、菅原道真の提議(唐後期の戦乱による回避)により廃止されました。随伴された人物には後世に名を残す仏僧の玄昉・最澄・空海を始め、山上憶良・吉備真備・橘逸勢といった官吏がおられました。また、中には、阿部仲麻呂の様に帰路途中で遭難に遭い、そのまま長安に徴用されて残る者や、志半ばで異土に屍を埋める御霊、海に散った御霊も少なくはなかったのです。

 幾多の人々のご尽力の上に齎された功績として、日本人の受けた影響の最も大きかったものは、仏教だと思います。

 庶民のそれまでの信仰とは、民族信仰=祖先神、自然神=自然の山・岩・木などを神格化崇拝することで、社はなかったようです。

 シャーマニズムと世界で云われ、「祈祷師・呪術師」(日本では「かんなぎ(巫)」とも呼ばれる)が古代から存在し、神や霊と交信して雨乞いやお告げなどを伝えていたようです。それを、畏れと崇敬の念を以て受け止めていたのでしょう。

 また、皇族をはじめ氏族や豪族は、その家系の氏神社を設えて祈祷をしていたようです。それと、卑弥呼は巫女だったという説もあり、大和朝廷でも「かんなぎ・祈祷師」が祭政一致の中心を担っていたようです。

 不安定な治安情勢や度重なる疫病の蔓延などで国内は騒然とする。そういう世相の中に、インドから諸国遠路を経て、我が国に仏教が伝来しました。

 日本に初めて伝来したのが五三八年、百済より仏像・経典が欽明天皇に贈られ、命により蘇我稲目が向原の自宅を浄めて祀ったのが寺の始まりとされています。

 但し、伽藍を配した現在に見る寺院として形を成した寺は、「飛鳥寺」が第一号となるのです。

 仏教の教えは、死後には総ての者を救う仏の坐す極楽浄土が在ることを説き、来世を信じさせることで死への不安を払拭し、生きる意義を求める糧を授けたのです。それが「仏」という誰もが身近に感じられる対象であり、心の安息を得られたのだと思います。

 しかし、人々を救う為に求められた仏教を巡って、崇宗派(蘇我稲目・聖徳太子)と排仏派(物部尾興・藤原鎌足)による戦が始まり、蘇我馬子と物部守屋の代に崇宗派の勝利決着するまで続くことになります。

都の造営

 都造りを遡ると、それまで五~六世紀の間、天皇が即位をする毎に奈良南部を転宮しながら統治を執り行っていましたが、「倭京」日本初、最古の大王政権飛鳥は、「富浦宮」「小墾田宮」「飛鳥浄御原宮(地下下層遺構が飛鳥板蓋宮と飛鳥岡本宮とみられる)」を総称する飛鳥京として斉明天皇から天武天皇、そして持統天皇に受け継がれて造営が成りました(その間、僅かですが、天智天皇から大友の皇子により、五年ほど滋賀に大津宮が遷都されていました。それも、壬申の乱に勝利した天武天皇が飛鳥浄御原宮に即位する迄の間の出来事です。)。

 そこで驚かされるのは、飛鳥京の機能です。奈良盆地の立地を巧みに取り入れた水利と排水機構が整備されていたのです。

 高台にある「水路の遺跡」から都へ網の目のように水溝を引き、生活用水を確保しつつ、消火用水の確保と、その多くの水量で涼夏対策としていたようです。

 また、その地下には豊富な地下水が流れ、飛鳥川の東側に発掘された苑水池を介して想像も出来ない排水機能が造られていたのです。

 苑水池に流された排水は、地下水圧とバランスがとられ、池水面より高くなると地下水に流れ込み、下がると地下水が入り込みます。池が自然の切り替え弁の役を担っていたのです。

 風雅・優美を愛でつつ、見えない部分では、現在の都市機能が苦慮する難問を、いとも容易くクリアしていたなんて称賛に価しますよね。

 因みに、よく氾濫したため、飛鳥川に排水を流し込むと云う選択肢は無かった様です。如何ですか、無性にロマンを掻き立てられて、今直ぐにでも飛んで見に行きたい衝動に駆られませんか。

 造営された飛鳥京は、五一年という在京期間しかありませんでしたが、飛鳥の地に凡そ、推古天皇から数えて一〇〇年に亘り威光を示した後、藤原京に移り平城京に遷都されるまで奈良の都の存在を国中に知らしめたのです。

 その後、平城京に遷都するまでの間の政務を担った藤原京は、中国の古書「周礼(しゅらい)」の記述を基に、中央部に宮城を配した(中心部から三六〇度見渡せる造り)整然として理想的な造営方式を取り入れた藤原京が誕生しました。

 しかし、僅か一六年の遷都期の後、都は平城京に移されることになります。

 その理由は、都の水資源の確保が難しくなった事と、当時、主流であった長安の都の様式を取り入れた最新の都造りを急いだからだと云われ、新宮城を都城中央北部へ配し、南向きに京城を見渡す造りに改めました。

 その南には壮大な都の入り口朱雀門を構え、中央を大極殿に至る南北三km道幅七〇mの公道「朱雀大路」を引き、両側には役所など七~八千人の務める多くの建屋が置かれ、儀式や宴会が執り行われた「日本庭園の原型」といわれる東院庭園が配されていました。

 その後、七八四年に、七四年という政務を終えて都は桓武天皇に伴われて長岡京に遷る事になるのですが、平城京去都前にして、目まぐるしく三ヶ所の移宮を繰り返しているのです。七四〇年に恭仁京へ、七四四年に難波宮へ、七四五年には紫香楽宮と、迷走遷都とでも云うべき意味不明に捉えられるような事業を行ったのです。

 一説には、国家的プロジェクトとしての首都圏構想を抱いて、転籍した地にネットワークを敷こうとしたとの見解もあるようです。

 こうして、平城京での七四年の遷都期を経て、日本の幼年期とも云える飛鳥・奈良時代を疾駆した奈良での歴史は、京都平安京へと引き継がれる事になります。

 この慌しい遷都期を率いた天皇が聖武天皇であり、それを支えられたのが光明皇后です。

 私見ではありますが、歴代天皇の中でも、足跡と波乱万丈な政務を熟された面を鑑みれば、功績は多大であったと思うのです。

 飛鳥京から平安京へと遷都する短期間に行った数々の足跡の内でも、第一の功績に「大仏建立」が挙げられると思うのです。

 これは、天下の混迷を糺す為であるのと、当時蔓延していた疫病平癒の願いを仏に託す為でした。その強い勅願によって日本全国から集められた資材・人材・資金を得て、国中を巻き込む騒動となった大事業も、発願以来九年(七五二年開眼供養)の歳月を経て成し遂げられたのです。

 確かに、律令制の制定・国史の編修・位階の改訂・八色の姓の制定と、天武天皇は後の朝廷主権基盤を構築されましたが、衆生へ向けられた政策は少なかったように思いますし、天智天皇は大化の改新から中央集権支配の基となる租・庸・調、等の制定を行いましたが、何れにしても、暗殺や継承争いという血生臭い側面を持ち合わせていることから、後記にさせて戴いた次第です。

 補足的に、藤原仲麻呂が唐に倣って儒教を基に朝廷政策を制定させ、歴史編纂などを手掛ける等の業績も残しましたが、ここでも、仲麻呂の乱による汚点(史実解釈の相違による事実誤認かは解析不可能であり、国導を志す方便が理に敵っていたか、現時点では知る術がないのです。)によって、説明止まりとさせて戴きます。

 そして、決して忘れてはならないのが、飛鳥朝廷に推古天皇の皇太子として摂政を務めた「聖徳太子」の足跡ですね。

 「憲法十七条」「冠位十二階」を制定(近年の解釈には、朝廷内で定められたとの見識も在るようですが。)し、天皇主権政治を推進しました。そして、法隆寺を初め各地に著名寺院を建立するなど仏教の興隆に尽力しました。

 そして何よりも、その自らの偉業から衆生にカリスマ的な存在感が周知され、崇敬と憧憬の念を以て信奉を集めたのです。それに因って人々の心に安らぎをも齎したのです。

 外交政策では、「小野妹子」を遣隋使として派遣し、新羅征討を有利にする為、先進文化を取り入れる為の施策を行いました。

 「和を以て貴しと為す」は余りにも有名なご法語で、現在にもそのご遺志は日本の良心として継がれております。

都は京へ

 七八四年、都は長岡京へ遷都するも、僅か十年という短命の期間を経て、七九四年に平安京へ都は落ち着くことになります。

桓武天皇を頂いて、南北5.2mの朱雀大路を境に南向きに、右京・左京と分け、東西4.5mの碁盤の目状に区画整理を行いました。右京・左京共に縦横に大路と小路で南北を九条、東西を四坊として、その後、右京は衰退、左京は鴨川から東山にまで連なるようになる発展を見せました。

文化の変遷

 此れまでに両都の築き上げた文化を辿るため、日本の歴史を千八百年ほど遡ります。

 邪馬台国の女王卑弥呼が、二三八年に魏国(現中国)への遣使を遣わした(それ以前、奴国王が後漢の光武帝に使者を送った記録もあるようですが、金印を授かる旨の記述には疑問があるようです。)ことにより、親魏倭王の称号とともに魏志倭人伝に記されていることは、皆様ご存知の史実です。

 それはつまり、古代より近隣国との交易が行われていて、様々な文化の影響を受けた事を意味しており、実際、様々な人材の渡来によって生活形態が向上し、新しい技巧の導入や改善により技術が改善されていったのです。

文化の変遷、衣

 両都が都としての成育を推し進め、生活水準と社会形成の拡充を図るために、巧みに異国文化を取り入れていった過程を詳(つまび)らかにすることで、賢く開花していった状況を訪ねたいと思います。

 初めに、飛鳥時代以前の人々の風俗風習を知り、これから両都が辿る変遷を紐解きます。

 衣類は、狩猟で得た毛皮や粗雑な布で織ったワンピースの様な装束で、弥生期になると、女性は貫頭(かんとう)衣(い)というポンチョ状の布をスッポリ被り、男性は袈裟(けさ)衣(い)と呼ばれた片肩から通した布を前で、共にお腹の辺りを紐で結んで留める装束でした。

 古墳時代まで進むと大陸の影響も濃くなり、役人になるとチマチョゴリに似た衣裳(きぬも)と云う上衣を身に纏う様になり、女性はスカート状で男性はズボン状の足結(あゆい)と云う衣褌を穿く様になり、その時代は右前合せだった様です。

 農民の衣類は、一枚の粗雑な布を夏季は日除けに、冬季は寒さ避けに適した工夫を凝らして着用していたようです。

 飛鳥から奈良時代になると、絹など繊維の生産能力が上がり、織物や染色の技術が向上し、貴族や役人などの装束は飛躍的な改善がなされて、此の頃には現在に通ずる左前合わせに変わるのです。

 また、冠位十二階に示される官職識別により、上質な織物に彩色を施した装束が、皇族・貴族の装束と共に、中国(隋)などの影響を受けて、礼服・上服・平服の三種が制定されたのです。

文化の変遷、食

 それでは、次に食と住の状況を検証したいと思います。

 弥生時代では稲作は少なく、団栗類と共に大麦・小麦と稗や粟を捕食としていた様です。

 一方の住居は、農民は竪穴式住居に暮らし、役人は板塀に囲まれた木造小屋に執務し、近くの木造住居に住んでいました。

 此の頃には、後の飛鳥京以降に続く都造営の構想をしていたのではないでしょうか。

 飛鳥・奈良時代に移ると稲作が発達し、農耕時代となり、瓜類・果実類の栽培が食生活改善を飛躍させ、海産物の豊富な資源から漁業の活性化に因って魚中心の日本独自の食文化が形作られます。

 奈良時代に、「鑑真和上」が中国から渡来した折に日本へ持ち込み普及させたものは仏教のみならず、後の日本の食文化に多大な貢献をされ、「味噌」を始め、「豆腐」「納豆」等の大豆食品を普及させ、その後に続く様々な人々の手に因って多種に亘る食材が齎される礎となられたのです。

都の開花

 両都は、大陸で培われた都の造営技術ならびに統治機構を手本として、それを凌駕する大和国の造営に邁進しました。

 奈良は、日本初となる大陸の文化・文明・思想を日本流に取り入れ、天皇を最高権力者であり日本の象徴として世界に鼓舞する中央主権政治の確立と京城の造営を果し、国内の治安を平定させました。

 それと共に、朝廷内には十二階位と十七条憲法の制定に因って、規律を整然化させる事で上下関係の認識が図られ、夫々の役職に在っての分際と参画意識を持たせる基盤を構築したのです。

 更に、衆生に在っては、朝廷の政治指導が機能する様になって日常生活に安定が齎されました。

 更に、仏教を布教・浸透させる事で人々の精神的な拠り所とし、日常生活から不安を取り除き生き甲斐を持たせる事ができました。

 京都に遷都され、また、その後の日本国興国隆盛に繋がる礎となり、奈良は日本の顔となったのです。

 京都は、奈良から受け継いだ天皇政治と王朝文化を融合させ、独特の雅を育み、粋や侘び寂びという精神文化と貴族文化を生み出し、花開かせていったのです。

 雅とは、凛とした威光と静謐な厳粛を根幹に持ち、連綿と培われた文化の一つの栄華を称辞するものです。

 平安王朝文化は天皇家を中心に、貴族や重臣、後には武家の台頭による様々な需要を満たす為、あらゆる職種の職人が都に呼び集められました。

 そして、既存の職を補い、より複雑・高度化し熟練度を要求される技量と、増える需要に応える為に職の細分化と専門職を整備しました。

 夫々の職人が切磋琢磨してその技法・技術・精度を卓越した域までに高めていったのです。

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